【シンメン】そして僕は途方に暮れるimage_maidoya3
いつのころからだろう。彼女は僕を避けるようになった。初めは単なる気のせいか、もしくは彼女の気まぐれのゲームか何かだと思っていた。そのうち、彼女もそうすることに飽きるだろう。そして僕に対して向けられるべき、温かで湿り気のある、親密な呼吸が戻ってくるだろう。そうすれば僕は今まで気にも留めていなかった風を装って、いつもの調子で辛辣な冗談を言い、彼女の笑い声を聞くことができる。やわらかで屈託のない、無防備に解放された彼女の体温を感じながら。
  あるべき状態に戻ることは、とても簡単なことに思えた。本当にあっけなく、たぶん今すぐにでも、それは起こることのように感じられた。でも、話をするときの息継ぎの仕方の微妙な違和感や、言葉の端々からこぼれ落ちる、冷たくなってしまった感情の痕跡はいつまでたっても消えることはなかった。それどころか、そうした変化は日を追うごとに大きくなっていくように思えた。そのことが単純な誤解なんかではなく、明らかな事実だとわかったとき、僕は僕自身を失った。彼女そのものよりも、僕自身の存在を。
  僕は一日に何度も電話をかける。彼女がいるオフィスのナンバーディスプレイには、おそらくまいど屋の名前が表示されているはずだ。でも、彼女は決して受話器を取らない。代わりに他の誰かが電話に出る。僕は用件を告げる。代わりに出た誰かがそれに答える。仕事であるのだから、用が足りればそれでいいのかもしれない。僕は心の中で舌打ちをし、失望感に押し流されそうになりながらありがとうと礼を言い、受話器を置く。電話に出た相手に彼女の名前を告げて、取り次いでもらえばいいのだろうか。いつもそう思う。でも、そんなことをして何になる?僕は何を求めているのだろう。
  どこでどう間違ってしまったのか。そんなことばかり考えながら、もうずいぶん長い時間が経ってしまった。僕は何か彼女の気に障ることをしてしまったのかもしれない。あるいは僕の日々の態度から、ある種のニュアンスを感じ取って距離を置くようになったのかもしれない。だが、どんなにもっともらしい理由を考えてみても、僕の中でしっくりくるものは最後まで一つも思いつけない。最近、僕はたまたま電話をとった彼女に、冗談を装って訊いてみた。このごろ電話に出てくれないけど、今は間違えて出ちゃったんだね。面倒くさいことばかりお願いするまいど屋ですが。そんなことないですと彼女は答えた。声にはやっぱり冷ややかなものが混じっていた。それから事務的な口調で、用件に答えて電話を切ろうとした。僕はほとんど反射的に、今度そちらに行くからと叫んでいた。取材ですから、前回のように商品の説明をしてください。やっとの思いでそう言って、受話器を置いた。どうしてそんな風に話すんですかとはとても訊けなかった。訊いたところで、答えるはずがない。それは結局、彼女本人の心の奥深くにしまってあるものなのだ。
  今僕は、広島に向かう新幹線の中にいる。アポイントメントはもちろんとっていない。あの時の電話では、取材の日程や、取り上げる商品のことさえ話していないのだ。そして彼女は取材を受けるとも言っていない。新幹線は僕の身体を、確実に広島に向けて運んでいく。僕の存在を押しつぶしてしまった、抱えきれないほどたくさんの絶望と共に。
 

シンメン
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正午を5分ほど過ぎたところだった。僕は震えそうになる手を懸命に抑えながらオフィスのドアを開けた。誰かに取り次ぎを頼むこともせず、いきなりその場所に足を踏み入れた。前回ここに来たのは、ちょうど一年前だ。あの時も確かに緊張していたが、希望と期待感の方がはるかに大きかった。今はただ、誰も引き受けてくれそうにないある種の罪悪感と、どこにぶつけようもない腹立ちと、一年前の記憶が胸の中をぐるぐると回っているだけだ。その他には何もない。僕の中の空っぽの空洞は、何かによって満たされることを求めていた。それがなんであるのかは自分でもわからなかった。ここにいることを後悔し始める前に、僕は思い切って彼女のデスクの前まで足を運んだ。
  「こんにちは」と僕は言った。彼女はただ黙って僕を見上げた。それから小さな声で、本当に来たんだと呟いた。彼女の目には戸惑いの色が浮かんでいた。遠い昔のクラスメートが集まる同窓会で、何を話したらいいのか困ってしまっているみたいに。
  「本当に来ました」と僕は言った。「電話で言ったはずだけど」。
  お昼時の雑談でざわついていた部屋がしんと静まった。それからその場にいた女性スタッフたちが一人、二人と連れ立って、部屋を出て行った。申し合わせたように僕たちの方には一切顔を向けなかったが、全神経を集中して聞き耳を立てていることは何となくわかった。最後の一人が念を入れるように入り口のドアを閉めた。がらんとした広いオフィスに、僕と彼女だけが残された。
  僕たちはしばらく無言で互いの靴先を眺めていた。先に耐えきれなくなったのは、彼女の方だった。「食事に行かなくちゃいけないわ」と彼女は冷たい声で言った。「お昼時に来て私がいなかったらどうするのだろう」。
  「さあどうしたのだろう」と僕は言った。「お昼は男性の社員がいないと聞いていました。ウチの担当営業に顔を合わせたくなかったんだ。もしよかったら、これを」。
  僕は福山駅で買った駅弁を彼女のデスクに置いた。「昼食がてらにと思ったんです。時間もないことですし、食べながらのほうが気楽に話せる」。
  「何を話すのだろう」
  「なぜ渡り鳥は冬になるとどこかに飛び去ってしまうのか。なぜ北極の氷が解け始めているのか。なぜローマ帝国は滅んでしまったのか。力石徹が死んだのはなぜなのか。それからなぜ僕が釈然としない思いを抱えて毎日仕事をするようになったのか。神様はいつも何かを変えようとする。なぜなんだろう」
  彼女は乾いた声で笑った。それから初めて僕に視線を合わせた。「私にも質問があるわ。なぜ、私があなたと二人きりで話をしなければいけないのか。どうしてあなたは自分のことしか考えないのか」。そして、力石徹は死ぬべき時が来たから死んだのよと呟いた。「終わるべき時が来れば、物事は終わらなくてはいけないの。何かが始まるときには、その中では既に終わりが始まっている。太陽みたいに光輝いて見えても、その陰にはいつもタイマーがセットされてるの。よほど注意しなければわからないけど、よく耳を澄ませれば、ちくたくちくたくって音がしているのよ。そしてそのときになれば、それは激しい音を立てて時間が来たことを教えてくれるわ」。
  「君にベルの音が聞こえたんだろうか。それで電話に出てくれなくなったのだろうか」
  彼女の身体が一瞬こわばるのがわかった。身を固くして、何かを必死に守ろうとしているように見えた。「わからないわ。でも、永遠に続く魔法は、魔法の国にしかないのよ。いずれ終わることがわかっているのなら」。彼女はそこまで言って息をひそめた。そしてどこか遠くを見るような顔で視線をさまよわせた。「初めから始まるべきじゃない。私にはわかるのよ。いつか突然、あのベルの音が聞こえる日が来ることが。そして、私はとうていその音に耐えることができないということが」。
  僕はその場に突っ立ったまま、何も言うことができなかった。彼女に近寄って、心配はいらないんだと態度で示すこともできなかった。ただ、黙って彼女の顔を見つめていた。まるでそうすることが、彼女の不安を取り除くと確信しているみたいに。彼女の目に何か光るものが見えた。彼女はそれを手の甲で慌てて拭った。それからまた表情を硬くし、せっかく来てくれたのだからお茶でもいれるわと言って席を立った。
 
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  小ぶりのポットと茶葉の缶、それにティーカップが二つ載ったトレーを手に戻って来たとき、彼女の顔にはすべてを諦めきってしまった人間のような投げやりな明るさが浮かんでいた。カップをテーブルに並べながら、お砂糖はいらなかったよねと言って僕の方をちらりと見た。僕が頷くと茶葉の缶を開け、中を子細に点検した。細かい茶葉と大きめの茶葉が半分半分、ティースプーンを使って注意深く選り分けられ、ポットに入れられた。それから給湯室にとって返し、沸騰した湯が入ったやかんを持って帰ってきた。ポットに熱湯が注がれ、蓋がされた。茶葉が蒸らされている間、僕たちはお互いの近況を伝えあった。シンメンの商品が去年以上に売れていること、まいど屋からの細かい注文が一日に何度もあって、シンメンの社内では陰でぶつぶつ文句を言っているひとがいること、そんな他愛もない話をした。茶葉がしっかり蒸れ上がったのがわかると、彼女はポットのお茶をティースプーンで軽くかき混ぜ、茶漉しで茶殻を漉しながら二つのカップにお茶を注いでいった。濃さが均一になるように、少しずつ、代わりばんこにお茶を継ぎ足した。動作に無駄がなく、すべてが手際よく運ばれていた。両手が美しく動き、止まり、やがてテーブルの上に二つのイングリッシュティーが並んで出来上がった。僕たちはデスクを挟んで向き合ったまま、それを飲んだ。買ってきた駅弁は手を付けられることもなく、脇に置かれたままだった。
  「ごめんなさい」と唐突に彼女が言った。
  「何について?」
  「すべてについて。特にあなたをここに来させてしまったことについて」
  「君が謝る必要はない。悪いのは僕なんだ。僕はきっと、少々浮かれていたんだろう。仕事で必要なこと以上に、君としゃべりすぎていたのかもしれない。本当は用件だけ伝えて、それで話を終わらせればいいんだ。だけど最近は、その肝心の用件すら伝えることもできなくなっていた。正直に言って、僕はひどく混乱していた。どうしていいのかわからなくなって僕はつい」
  彼女は僕の話をさえぎるように違うのよと大きな声を出した。そう言ってから不安に駆られたように周囲を見回し、誰もいないことを確かめると僕の顔をまっすぐ見てこう言った。「あなたから電話がかかってくると、周りの空気が変わるようになったの。急に静まり返ってしまうの。遠くでひそひそと何かが話し合われているの」。そこで大きく息を吸い込んで、苦しそうに顔をゆがめ、目を閉じた。そして目を閉じたまま僕に言った。「せっかくここまで足を運んでもらって、何もせずに追い返すわけにはいかないよね。あなたはお仕事できたんでしょう?いいわ。商品の説明をしましょうか。一年前と同じように。そして説明が終わったらすぐに帰ってください。時間は取らせないから」。
  「ありがとう」と僕は言い、残っていたポットのお茶を、彼女のカップに注いでやった。やがて時計の針が1時になると、部屋には社員たちが戻ってきた。僕たちは二人で会議室に移動した。急なことなので、もちろん商品は用意されてはいないが、カタログをめくりながら、何とか商品説明をしてもらうことにした。僕たちは細長いテーブルを挟んで向かい合った。カタログは僕の方に向けられ、僕が開いたページの商品について、彼女が知っていることを教えてくれた。あくまで営業的に。事務的に。椅子はやや後ろに引かれ、僕がどのページを開いているのか、そこからでは見えにくいように思われた。説明をしながら、彼女はまるで怒っているように僕の方に視線を向けなかった。いや、本当に怒っていたのかもしれない。彼女の周囲には、全てを拒絶しているような雰囲気があった。そして彼女の中に、僕を受け入れるスペースは残されていないようだった。
  彼女は営業アシスタントであるから、商品についてあまり知らないことも数多くある。彼女が説明に詰まると、僕は商品写真を示しながら、まいど屋の販売経験で蓄えた知識を話してあげた。これはお客さんからこんな感想があったよ。評判がいいところ、悪いところ。彼女はそうなんですかというように黙って何度も頷いた。
  いつの間にか、彼女はテーブルを回って、僕の横の椅子に腰かけた。カタログが見にくくて、効率が悪いと判断したのだろう。彼女は決して時間が有り余っているわけではない。早くオフィスに戻って、自分の仕事を始めなければならない。今度は彼女がページをめくり、一つ一つ商品を指差して話をした。僕は彼女の細い指を眺めた。それがしなやかにページを繰り、話すべき商品の写真を軽くたたいた。僕は気づかれないように彼女の方に椅子を近づけ、身を傾けるようにしてそれを見た。肩と肩が自然と触れた。柑橘系のシャンプーの匂いがかすかに香った。僕がカタログを手元に引き寄せようとするとき、彼女の指先が僕の手の甲にあたった。彼女はびくっとしたように手をひっこめ、それからそれを僕の腿の上にそっと置いた。まるで電車の網棚に何気なく新聞紙を置くみたいに。そして置き忘れられた新聞紙がいつまでもそこにとどまっているみたいに、しばらく僕たちはそのままの姿勢でいた。彼女の横顔は、軽くウエーブのかかった髪に隠されて見えなかった。ただ、彼女の手のひらのぬくもりだけが、僕の足に伝わってきた。僕は彼女の手の上に、僕の手を重ねた。彼女はそれを振り払おうとせず、商品についての説明を続けた。僕は彼女の声をノートに書きつけた。快活で、優しく、怒ったふりをしたかと思えばくすくすと笑い、時に甘え、時に棘をもつ彼女の声を。
  それから彼女は椅子を引いて立ち上がった。そしてテーブルを回り、元の場所に座りなおした。顔には表情がなかったが何かを言おうとしていた。僕はそれを辛抱強く待った。彼女の口が少し開き、泣き笑いのような顔になった。そして「今日はお越しいただいて、ありがとうございました」と言った。僕も「ありがとう」と言った。そして、そこでお別れを言って部屋を出た。
  その時僕が書き留めた商品を以下にまとめておいた。彼女はこのレポートを読んでくれているだろうか。僕が彼女に電話をすることはもうないだろう。終わりのない魔法は、この世界のどこにもない。でも僕たちはあの日、しっかりと仕事をした。誰に後ろ指を指される必要もなく、通常の業務の一環として、ごく普通に。同時に誰もが何かを勘ぐりたくなるほど我を忘れて、熱心に。そして僕は、今も僕自身を失ったままでいる。
 
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