【ファイルNo.1】今木商事image_maidoya3
私が初めてその男に会ったのは、東京から大阪方面へ向かう新幹線の中だった。今から3年ほど前の、蒸し暑い夏の夜のことだった。当時、私は月刊まいど屋の取材目的で広島へ出張することが多く、移動時間中は大抵、翌日のインタビューのための資料作りをしていることが多かった。広島までの4時間は、自分の生活がまともであるかどうかについて考えを巡らすには短すぎ、何もしないでいるには長すぎた。だから私はいつも何かから逃げるように、単調な作業の中に自分の居場所を確保するようになっていた。
  そのときも私はノートパソコンから目を離さず、キーボードを叩き続けていた。そういう作業をしていると、私が座る自由席の列に他人が腰を落ち着けようとする確率が低いことを、私は経験上知っていた。いつも締切りに追われていた私には、時間を有効に使わなければいけないという意識が、半ば強迫観念のように付きまとっていた。そしてそのために、私は何より静かさを必要としていた。クラシックのコンサートホールに通い始めた音楽通気取りのように、集中力を乱されることをとても嫌っていた。
  平日、夜7時過ぎの車内は比較的すいていた。男は品川駅から乗り込んできて私の隣の席に座った。男の体温が伝わってくるような息苦しさを覚えたが、私は顔を上げることもなく、パソコンの画面に没頭し続けた。そうすることで、自分のささやかな世界を守ろうとしたのだ。誰もいない列がいくらでもあるにもかかわらず、男がわざわざ私の隣に座った理由を考えることは、すなわち、自分の集中力が途切れたことを認めることを意味していた。自分が他の席に移ればいいという考えは、そのときの私には浮かんでこなかった。
  パソコンを睨み続けて何とか自分を維持しようとする私の空しい努力は、新横浜を過ぎ、車窓がすっかり暗くなった辺りで終わりを迎えた。何かの拍子に顔を上げ、窓に目を向けようとした私の視界を、その男の顔の輪郭がかすめたのだ。男の顔は漆黒に沈んだ暗闇を背景に車内を映し出す窓の中央に、リアリズムを極限まで探究したゴッホの自画像のように浮かんでいた。それは明らかにその場に相応しくない類の絵であるはずだったが、突拍子もない飛躍によって中身のなさをカモフラージュしようとするような抽象画とは違い、静かに周囲の風景に溶け込んでいた。もしかしたら場違いなのは私の方かもしれなかった。私とその男の視線は、非現実をさもありそうな風景として描いたその不思議な絵画を中継器としてぶつかり合った。私はこれ以上、自分の席で自分のルーチンを守ることが出来そうもないことをようやく悟った。私が目にした男の顔は--それが顔と呼ぶべきものかはさておいて--プロレスラーが使うような鮮やかなブルーの覆面をかぶっていた。その下につながる首筋から肩にかけての筋張った筋肉が、小ざっぱりした麻のジャケットの下でゆっくりと上下動を繰り返していた。
  男の注意は明らかに私に向けられているようだった。そして口元に空けられた穴の奥から、何かを私に伝えようとしているように見えた。だが私は振り向いてまともに男と対面することがどうしてもできず、そのまま鏡になった窓越しに軽く会釈をした。男も軽く会釈を返した。お互いの会釈は、たまたま顎を引いただけだとも言えそうな、それが会釈であるかどうかほとんどわからない程度に抑制されていた。それから私は再び下を向いてキーボードのホームポジションに両手を置いた。何かをしなければいけないと思ったが、一文字も打つことができなかった。私は男が浜松で席を立つまで、そのままの姿勢で固まり続けた。男がいなくなり、浜松のプラットフォームに立つ覆面が背後に遠ざかっていくのを見届けてから、私はようやく再び空席になった自分の左隣にノートパソコンを投げ出し、腕を上げて大きく伸びをした。肩の筋肉が一週間も台所に放置されたフランスパンみたいにこわばっていた。そこから広島までの3時間、パソコンに触れることは二度となかった。
 

ファイルNo.1
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次にその男が私の前に現れたのは、それから約一年後のことである。いや、正確に言うと、私は男に直接会ったのではなく、その男が写った写真を手にしたのだ。まいど屋の企画関係を手伝ってくれているプロダクションの担当者から手渡された提案書のカラーコピーに、覆面の男が写っていた。両目と口の周囲を赤く縁取ったブルーの覆面と麻のジャケット。あの夜の男に間違いはなかった。
  「彼しかいませんよ」と担当の尾島君が言った。年若い割に、断定的で自信に満ちたいつもの口調だった。
  「でも、どうして覆面なんだろう。エキセントリックな人間とは仕事をしないことにしているんだ。握手をしても、途中で何をおっぱじめるかわからないからね。本当に信用できるのかな」
  「そんなこと言ってる場合じゃないじゃないですか!」
  尾島君が私に対して思わず語気を強めたのももっともだった。確かにそのときの私には選択肢がなかったのだ。私はもう一度提案書に目を落とした。覆面の男の顔写真ともいえない顔写真の下に、彼の略歴と幾つかの代表作が細かな字で印刷されていた。そしてプロフィールの一番下にある連絡先には、浜松市の住所が記されていた。
  それはまいど屋のトップページで連載している「まいど君がゆく」というマンガの扱いを決める打ち合わせの席だった。その打ち合わせの少し前に、連載開始から長年苦楽を共にしてきたマンガ家の藤井さんが突然亡くなってしまったのだ。私とほとんど変わらない年齢での、あまりに若すぎる死だった。後には同世代の奥さんと、幼い子供が残された。そして年の瀬の慌ただしさの中、できの悪い芝居のリハーサルでもしているように現実感のない葬式が執り行われた。私は目の前を通り過ぎていく、ほとんどブラックジョークにしか思えないシーンの連続を呆然と見守った。散々世話になった藤井さんの遺族にかける言葉は見つからなかった。私はただ黙礼をしただけで、葬儀場を立ち去った。
  私はひとりだった。次にどう行動をすればいいのか、全く分からなかった。藤井さんを失ってしまったまいど屋のトップページは、それからしばらくの間、いつまでも更新されないまま、遺作となった年末のクリスマスのストーリーを楽しげに語り続けていた。
  私が何かをするべきだということにようやく思いを巡らすようになったのは、2月も終わりに近くなってからである。藤井さんとまいど屋の間を取り持っていてくれていたプロダクションの尾島君から私の様子を心配する電話があり、それで多少気持ちを前向きにすることができた。それから何度かの電話とメールのやり取りの後、こうして今後についての打ち合わせをすることになったのだ。
  企画書の一番上には、赤文字で太く「今木商事」と印刷されていた。今木商事。随分と人を食った名前だ。覆面といい、ペンネームといい、客観的に考えればやはり相当変わった人物であるようだった。新幹線の中で覆面越しにじっと私を見つめていた男の姿が私の脳裏に蘇った。なぜあの夜、男は私の隣に腰を下ろしたのか。どんな縁があって、今また再び私の目の前に姿を現したのか。まいど屋はこれから何年も、この男と本当に安定した関係を築けるのか。
  「でも、腕は確かなようですよ」、と尾島君が私の不満そうな顔を見て言った。「プロフィールにもありますが、刊行物になっている作品もたくさんあります。よかったら、取り寄せますから」。
  「腕が確かだとどうしてわかる?自分で作品を読んだのか?少しばかりコツをつかんだ人間なら、きょうび誰でも作家を名乗るじゃないか。ちょっと描いて、それをネットに投稿すればもう先生だ。違うか?一体どこからこの覆面を探してきた?」。私の口調はいつになくとげとげしくなっていた。覆面の穴を通して私の眼とぶつかり合ったあの夜の無遠慮な視線が、私の平常心を奪っていた。
  「ちゃんしたと出版社から出版されているんです。それに・・・」。尾島君はまるで追いつめられて決意を固めた活動家が、起死回生を狙った大胆な計画を同志に打ち明けるような調子で声を落とした。「今木商事さんは藤井先生の友人なんです。つてを頼って、ようやく探し当てたんですよ。電話で話したんですが、本人によると、かなり親しくしていたようです。タッチもわかっているから、すぐにでも引き継げるって」。
  「友人だって?つてってのは誰だ?」
  「奥さんです」
  私は天を仰いだ。確かに私にはこの話にだらだらと難癖をつける資格はないようだった。私は尾島君に向かって、先方と条件面を詰めてくれと言ってその日のミーティングを打ち切った。
 
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  後にわかったことだが、今木商事は藤井先生の奥さんが紹介してきたのではなく、今木商事が奥さんの紹介だと名乗って自らプロダクションにコンタクトを取ってきたのだった。尾島君は営業の人間らしく、話を脚色して自分の骨折りを誇張していたのだ。だが、そのとき私はそんな事情など知る由もなかった。私は世話になったひとの奥さんに報いるつもりで、今木商事と称する覆面の男と再び相対することになった。
  私と今木商事の初めての打ち合わせは、3月に入って最初の週に都内の喫茶店で行われた。尾島君は同席することを強く主張したのだが、私には思うところがあってその申し出を断っていた。指定されたのは、渋谷のパルコの前の雑居ビルの地下にある薄暗い店だった。店内には会話を妨げない程度の控えめなボリュームで、アンサンブルのバロック音楽がかかっていた。痩せた中年のマスターが、何かを諦めきったような表情を浮かべながら、カウンターの中でひとり黙々とカップを磨いていた。
  私は奥まったところにある席でコーヒーを飲みながら男を待った。酸味の中にほのかな甘さとコクがある、なかなかのエメラルドマウンテンだった。昭和の時代でカレンダーが止まってしまったような古ぼけた店だが、マスターの腕は確かなようだった。彼の顔がせめてもう少し明るくなれば、恐らく少しは流行るのだろう。だが、マスターはいつまでも陰気な顔をしたままで、どれほど時間が経っても客が押し寄せてくることはありそうになかった。
  4杯目のコーヒーを飲み干し、気分が悪くなりかけたところに覆面の男が入って来た。マスターはちらりと男に目を遣っただけで、また静かにカップを磨き始めた。街角の電柱からはがれかかっている、果敢な改革とバラ色の未来を訴える政治団体のポスターが目に入ったときと同程度の反応しか彼の表情には浮かばなかった。世紀の大発見をした考古学者が出土品を丹念に調べるような手つきでカップを撫でまわし続けるだけで、注文を取ろうともしなかった。
  男は黙ったまま、私のいるテーブル席の隣に腰を下ろした。あの夜と全く同じだった。だが今回はお互いの存在の重さを緩和するためのクッションとなる鏡はなく、相手の眼差しを直に受けなければならなかった。
  「久しぶりですね」、と私は言った。それから、何とか打ち解けた雰囲気を出そうと、努めて明るい口調で「いつもその覆面をかぶっているのですか」と男に問いかけた。
  「あなたにお会いするのはこれが初めてです」
  男の声はくぐもって聞き取りにくかった。話し方はリハビリ患者が発声を練習するときのようで、そこには一切の感情が抜け落ちているように思えた。AIを搭載したタブレット端末でももう少し親しみの湧くしゃべり方をするかもしれない。その態度は友好的とは程遠く、あるいは私に対して敵対心さえ抱いているように見えた。男が何を望んでいるのか、私にはまったく見当がつかなかった。
  そうですか、と言って私は男が素敵な打ち明け話をし始めるのを待った。男は私に語るべき何かを持ってきているはずなのだ。酸味がほどよく効いたエメラルドマウンテンを味わうために、わざわざ浜松から出てきたわけではあるまい。この店ではマスターは客の前に出てきて注文を取るような作法を持ち合わせておらず、男もまた、相手から催促を受けない限り、何を頼む気もないようなのだから。
  「まいど君がゆくが中断している。私はそれを引き継ぐことができる」
  「そうですか」と私は再び言った。それから男の顔をしげしげと眺めた。覆面のせいで表情は読み取れなかったが、目に強い光が宿っていることは何となくわかった。口元に空いた穴の下できつく閉じられていた薄い唇がほんのわずかに開き、そこから赤い舌先が覗いていた。
  「まいど君がゆくは再開されなければならない。あのマンガには、藤井さんの魂がこもっている。去年の暮れの最後の原稿の中に閉じ込められた想いが、再び解放されることを願っている。私にはそれがはっきりとわかる」。男はそう言って、大きく息を吸い込んだ。それから両手を使って神経質そうに覆面の位置を何度も直した。「それに、藤井さんの奥さんもマンガのことを心配している。私なら今月中にも始められる」
  「条件は?」
  「藤井さんのときと同じだ。月に2回、原稿を送る。原稿料は月末にまとめて振り込んでもらう」
  わかった、と私は言った。それからまいど屋とまいど屋の取扱商品について、男にいくつかの質問をした。まいど屋についての情報と、商品についての深い知識がなければ、マンガなど描けるはずがないからだ。男が眉間にシワを寄せたのが、覆面越しにも見て取れた。何かの理由で気分を害したのかもしれない。だが、男はそれ以上反発するそぶりは見せず、淡々と質問に答えていった。男の答えは驚くほど正確で、まるでアイフォンのSiriが返事をしているみたいだった。
  男がどこでそんな知識を得たのか、私には全くわからなかった。だが、私はそれについては質問することをしなかった。男の態度が醸すその場の雰囲気が、そうした問いかけがされることを頑なに拒んでいた。男の持つ知識が十分であることを確認すると、私にはもう口にすべき話題が残っていなかった。私はあっさりと男の申し出を受け入れた。そして伝票を掴んで席を立った。
  「来週には最初の原稿を送る。受け取ったらすぐにアップしてくれ。掲載が確認できたら、今月分の請求書を作る」。抑揚を欠いた男の声が、私の背中に投げかけられた。私は伝票を掴んだままの右手を軽く上にあげてそれに答えた。4杯分のコーヒーの代金を払うと、私は男の方を振り向かずにそのまま木製の扉を押して店を出た。狭い階段を上がり、通りに立つとほっとした。その後、覆面の男と寡黙なマスターがどんなやり取りをするのかなど、私には知ったことではなかった。覆面が水さえ出されていないテーブル席で手持無沙汰になろうと、それでもマスターが黙ってカップを磨き続けようと、それは私が心を痛めるべき問題ではない。ひとにはそれぞれ自分だけの流儀があり、大抵の場合はそれに従って物事は解決されてしまうものなのだ。
  それから私は通りを渡り、向かいのビルの入り口に身を潜めた。喫茶店に降りていく階段の入り口を見渡せる場所で、うまい具合に向こう側からの視界を遮るビルの案内板が、歩道にはみ出すように置いてあった。私はそこで男が階段を上がってくるのを待った。だが、男はいつまでたっても上がってこなかった。人通りがすっかり少なくなってから、細長い棒を持ったマスターが階段を上がってきて、あたりをきょろきょろと見まわし、それからおもむろに棒を階段入口の天井に差し込んでシャッターを下ろした。マスターはシャッターの向こうに見えなくなった。私は猛然と走り出し、通りを再び横切った。タクシーが一台、けたたましいクラクションを鳴らしながら私の左前で急停車したが、私は構わず走り続けた。それから雑居ビルの裏側に回った。ゴミが出しっぱなしになっているビルの後ろ側には、業者専用の狭い階段がついていた。階段を上りきったところのアスファルトの地面に小さなくぼみがあり、そこにほんのわずか、ゴミから流れ出た汚水がたまっていた。水たまりから駅に向かう方向に、左足だけの足跡が4つほど残っていた。最初の足跡はまだ足の形が黒々とし、4つ目になるともうほとんど消えかかっていた。私は足跡を追うように駅へと向かう狭い路地を走った。ふたつ先のやや賑やかな通りの角に、見覚えのある麻のジャケットを着た男の後ろ姿があった。覆面はかぶっておらず、髪を短く刈り込んだ後頭部が見えていた。男はそこで右に曲がった。私は信号を無視して男を追った。男のいた角まで来て右を見たとき、私は素人探偵の能力の限界を知った。雑踏の中に男の姿は消えていた。
 
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  それからきっかり七日目に、プロダクションの尾島君を通して私は男から最初の原稿を受け取った。尾島君は原稿が添付されたメールを送信するとすぐに電話をかけてきて、こちらがもしもしも言わないうちに「驚きましたね」と私に感嘆の言葉を押し付けてきた。「見ました?ほとんど完璧じゃないですか。まるで藤井さんが描いたみたいだ」。
  「まだ見ていない」と、私は言った。それから彼を外して男と話をつけてきた先日の件を改めて詫びた。「報告し忘れていたけど、仕事の流れはこれまでと同じだ。先方は原稿を君に送ってくる。君は内容をチェックしてから、それを僕に転送する。支払いは毎月、君の会社からだ。金額と支払日も前と同じだ」。
  「それで今回のが初仕事なんですか。まいど屋さんへの請求もこれまで通りでいいんですか?」
  もちろんだ、と私は言い、それから2、3の実務的な打ち合わせをしてから電話を切った。今木商事がどんな人間だったか、尾島君はしきりに知りたがったが、私は話を適当にはぐらかしてその話題には踏み込まなかった。いや、思ったより普通の人間だったよ。しっかりした、教養のある人みたいだった。藤井さんとの付き合いの中で、まいど屋についてもかなり知っていたみたいでね。このマンガに対する思い入れもかなりあるようだから、しばらく安心できると思う。もちろん、渋谷の喫茶店に今木商事が覆面で現れたことなど言わなかった。言えるわけがない。覆面姿の今木商事と会うことは、実はこれで二回目だということも、当面の間は自分の胸だけにしまっておくことにしておいた。当の今木商事ですら、私に見覚えはないと言っているのだ。そして恐らく、近頃では覆面をして街歩きすることが、ごく一般的なスタイルとして世間に定着しているのだ。喫茶店のマスターだって店内に覆面がいても表情ひとつ変えなかった。覆面マンガ家に何度も遭遇したなどと騒いでいるのは、実のところ、この世で私ひとりだけなのだ。
 
  尾島君が感心した通り、今木商事のマンガは初めから完璧なクオリティーと亡き藤井先生譲りのタッチを持っていた。作者の交代に伴う作風の変化はほとんど感じられなかった。それは作品の連続性を保つための極めて高水準な模倣というよりは、むしろオリジナルな創造性によって連載の質を一段高めたような印象をもたらした。新たな着眼点がまいど君やその家族たちを作品の中で自在に動き回らせ、よく練られた結末が読後にこれまで以上の深い印象を残すようになっていた。事情を知らない一般の読者には、もしかしたら作者が交代したことなどわからないかもしれない。だが、まいど君がゆくは確かに進化していたのだ。
  次第に、私は原稿を受け取るのが楽しみになっていた。もし連載開始からのファンだという読者の方がいたとしたら大変心苦しいのだが、正直に話すと、編集者である私は、それまでずっとマンガの原稿が送られてくるたびに職業的な息苦しさを覚えていた。ストーリーに登場するまいど屋の取扱商品が正確に描写されているかどうかを細かく確認し、事実と異なるようなことがあれば描き直しをお願いしなければならない。それから商品についてのコメントをいくつか書いて、マンガの表紙の隣に貼り付ける。それは私が大量にこなさなければならない業務のひとつに過ぎなかったが、いつも思った以上に時間を取られてしまい、作業が終わるとぐったりと疲れ切ってしまうのが常だった。そんな重苦しい義務感が今木商事に代わってから徐々に薄らぎ、一つの原稿が届いてから2、3日もすると、もう次の作品を心待ちにするようになっていたのだ。
  約束通り、原稿は月に二回、まるでゴミ収集車がどんなことがあっても決められた曜日を守ってやって来るように送られてきた。毎月第二と第四の月曜日の午前中だ。その日になると、私は朝から何度もメーラーを立ち上げては新着メールをチェックするようになった。次々に受信ボックスに入ってくる青文字の未読リストの中にようやく尾島君からのメールを見つけると、やりかけていた仕事を中断してでも添付のマンガを読みこんで、一連の作業に取りかかった。今木商事の仕事はいつも申し分なかった。そうした平和で生産的な状態が一年ほど続いた。
  その間、私は時折、今木商事と電話でやり取りをすることがあった。マンガのネタになる情報を定期的に与える必要があったのだ。
  「情報が欲しい」と今木商事が電話をかけてくるのは、大抵、月末の夜のことが多かった。オフィスに私しかいない時間を見計らって、今木商事はまいど屋のオフィスに電話をかけてきた。最初のうち、彼は例のくぐもった聞き取りにくい声でぼそぼそと話していたのだが、次第に発音は明瞭に、ときには笑い声さえ立てるようになった。あくまで、細心の注意を払った跡のある、目的を持った意思によって抑制された笑い声だったが、それは笑い声には違いなかった。どこかの調査機関から無遠慮にかかってきて協力を強いる世論調査の自動音声よりは、よほどましだった。
  「まいど君の家族は幸せそうだな」。ある晩、詳しく知りたい商品について私の説明を聞いた後、今木商事は他人事のようにそう言った。用件が終わっても珍しくなかなか電話を切ろうとせずに、そんな独り言めいた話を始めたのだ。「憎まれ口をきくが、互いに信頼し合ってるんだ。俺にはそれがどうも嘘っぽく思える。家族全員が心を一つにして商売をするなんて、現実にはありっこないんだ」。
  「マンガはあんたが描いてるんじゃないのか?」
  「ああ、そうだよ。俺はいつもマンガを使って嘘ばっかりついている。藤井さんから受け継いだ世界がそうだったからだ。藤井さんは俺とは正反対に、心温かな人間だ。だから俺と違って、ああいう物語を信じる資格を持っていた。だが実際、そこは俺にとっての地獄だよ。俺は夜中に独りで、俺にとってはリアリズムの欠片もないハリボテみたいな理想の世界に連れて行かれる。そこで朝まで囚人としてまいど君に向き合わされる。俺は本当は家族全員が憎しみ合っているような現実を描きたいんだ。俺が安心して身を落ち着けられる、俺が慣れ親しんできた世界を」
  「描けばいい。父さんが浮気した母さんを殴り、まいど君がグレ始める話を思う存分描けばいい。ついでにまいど屋が倒産しても面白いじゃないか。債権者が殺到して、みんな半殺しの目に遭わされるんだ。マンガの内容に関しては、まいど屋は一切口を出すことはしない。あんたがそうしたければ、誰もそれを止めたりはしない」
  「いいのか、本当に?俺は遠慮を知らない人間だぜ」
  「路線変更したいのか、止めてほしいのか、どっちなんだ?」私は思わず声を荒げた。「まいど君がゆくは今ではあんたのものだ。あんたが好き勝手にすればいいんだ。藤井さんとか、まいど屋とか、他人に責任をなすりつけるな。覆面などして、あんたは何を守っている?」
  今木商事は黙り込んだが、電話を切ることはしなかった。受話器越しには彼の押し殺したような息づかいだけがかすかに聞こえていた。
  「誤解してもらっては困るが、僕はあんたを買ってるんだ。まいど屋を訪ねることもしないで、よくあれだけのものが描けると感心してる。あんたはどこで商品知識を手に入れた?何でまいど屋の内部事情を知っている?僕があんたに渋谷で会った夜、僕はあんたを追っかけた。あんたはそれを知っていたな。一度は覆面まではずして、僕と向き合うことを真剣に考えたんだろう?だが、思い切ることができずにあんたは逃げた。あのとき、僕に何を伝えようとした?」
  「会って話をした方がよさそうだな」、と今木商事は苦しそうな声で言った。「明日、こっちに来てくれ。あなたには話さなければならないことがある」。
 
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  翌日、私は一年前に尾島君から手渡されたプロフィールに記されていた、今木商事の浜松の住所を訪ねた。その日、私はノートパソコンを持たずに出掛け、新幹線の私の隣の席では、観光目的らしい中年女の二人連れが、休むことなくおしゃべりを続けていた。覆面をしたマンガ家が偶然乗り合わせてきて私の隣に座るようなことは一度もなかった。
  浜松駅からタクシーを使い、目的の一軒家に着いたのは午後1時ごろだった。それは静かな住宅街のT字路のちょうど真ん中に立つ、古びた家だった。梅雨の終わりにしては珍しい、霧のようなしっとりとした雨が降り始めていた。玄関の左手に見える縁側の先には、物干し台に二本の物干しざおがかかっていた。もちろん洗濯物は一つもなく、雨戸は締め切られていた。家全体が、まるで主が長期の旅行にでも出かけてしまったように静まり返っていた。チャイムを押してしばらくすると、茶色く塗装されたスチール製のドアがドフトエフスキーの小説に出てくる金貸しの婆さんみたいな用心深さでそっと開いた。拳程度に開かれた隙間の後ろに、見慣れた覆面をかぶった今木商事が立っていた。
 
  今木商事はこの日も覆面をしたまま私を中に招き入れた。玄関を入ってすぐのリビングのソファーに私を座らせ、「コーヒーでもどうだ」と言ってキッチンに入った。私の左後ろの方から、湯を沸かす音が聞こえてきた。それからがさごそと戸棚を開けて何かを探す音がした。私はそちらを振り返ることはせず、ただ前を向いて今木商事を待った。部屋は思ったよりも散らかっておらず、掃除が行き届いているようだった。ソファーの前のテーブルには、まいど君がゆくの描きかけの原稿が2枚、病院の待合室に備え付けられたアンケート用紙のように置かれていた。
  雨戸が締め切られているせいで、部屋の中はやや薄暗かった。角に置かれた電気スタンドが照らす淡い光が、部屋の中のあらゆるものにぼんやりとした陰影を与えていた。昼だか夜だかわからない、置き去りにされてしまった時間が閉じ込められているような部屋だった。初夏だというのに、そこにはひんやりとした空気が滞っていた。
  「エメマンだ」と言って、今木商事が私の前にコーヒーを二つ載せたトレイを置いた。「豆を取り寄せておいたんだ。お代りが欲しかったら言ってくれ。湯はたっぷり沸かしたから」。
  「コーヒーを味わうためにわざわざ浜松まで来たわけじゃないんだ。その覆面を取ったらどうだ?」
  「コーヒーが好きだろう?喫茶店のマスターがそう言っていた」。今木商事は私の言葉など耳に入らなかったようにカップを一つ取り上げると、立ったままそれをゆっくりと一口飲んだ。覆面の口元に空いた穴の上側の縁に、小さな茶色い染みが広がった。
  「あのマスターはあんたの知り合いなんだな。客向きではないが、腕はいい。もし彼が客商売の単純な極意を知れば、きっと大繁盛間違いなしだ。客はピカピカのカップより、店主の笑顔を覚えているもんだ。今度会ったら、鏡の前で口角を上げる練習でもした方がいいと言っておいてくれ。ところで、僕はこんな話をしにここまで来たのではないんだが」
  「そうだったな」と今木商事は言った。それから意を決するように覆面の下の両目をきつく閉じ、「そろそろこの仕事をやめようと思う」と言った。
 
  私たちは薄暗い部屋のテーブルを挟んで向き合っていた。私が座っているソファーの向かいには一人用の肘掛椅子があったが、今木商事は立ったままだった。
  「そこに置いてある原稿を仕上げたら、俺はこの家を引き払う。あなたが原稿を受け取るころには、俺はもうここにはいない。銀行口座も閉めてしまうから、原稿料も受け取れない。今月は俺からまいど屋への心ばかりのサービスだ。あなたにはいろいろと世話になった」
  「やめてどうする?」
  「マンガ以外にだって食い扶ちはいくらでもある。まあ、そう心配しないでもらいたい」
  「あんたの心配などしていない」、と私は言った。努めて冷静に、感情に任せて声が大きくなってしまわないように。「だが、藤井さんの奥さんが悲しむことになる。あんたに引き継いでもらって、主人もきっと喜んでるって言ってたのに。奥さんにどう説明するんだ?」
  「奥さんは理解してくれる。辞める理由は俺から話しておく」
  「なるほど」、と私は言った。「あんたと藤井さんの奥さんは深く理解しあっている。どうやら僕の出る幕はなさそうだ」。
  「コーヒーが冷めるぜ」
  私は自分の前に置かれたコーヒーに目を落とした。運ばれてきたときには盛んに私の鼻孔をくすぐっていた湯気はもうすっかり収まり、豊かな香りはどこかに消えてしまったようだった。私はそれを一口すすった。代わりにそこにあるのは、酸味と苦味の効きすぎた、黴臭い匂いだけだった。
  「あんたは初めから完璧に仕事をし過ぎていた。それで計画が上手くいかなくなったんだ。あんたは東京に戻って、またマンガを描き始めるんだろう?覆面を取ったらどうだ?」
  今木商事は驚いたように大きく両目を見開いた。それから全てを受け入れる覚悟を決めたように、覆面の奥から私に投げやりな視線を投げかけた。両手で覆面のすそをつまみ、それをゆっくりと上へ持ち上げた。
 
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  今木商事は藤井先生だった。藤井先生がなぜ、自らの葬式を計画し、それを実行に移したのかについては、プライバシーにあまりにも関わることであるし、利害関係者が今なお多く存在していることもあるから、この物語では触れないことにする。それに私の人生で極めて重大な意味を持ったこの数年間の奇妙な体験は、その部分を割愛して読者の皆さんに対して物語ったとしても、物事の本質を伝えるという意味において、特に問題があるとは私には思えないのだ。
  とにかく、二年半前の冬の日、藤井先生は社会的には故人となり、それに伴ってまいど君がゆくは一旦終了した。そして藤井先生はあらかじめ用意していた今木商事の名前を使って、再び活動を始めたのだった。
  「いつからわかっていたんだ?」と藤井先生は言った。意識して声色を使うことをやめ、彼自身の話し方に戻った懐かしい声だった。
  「はっきりと確信したのは、つい最近です。ただ、始めからあまりにスムースにまいど君を描ききっているので、おかしいとは思っていましたが」
  「騙して悪かったな」
  「そんなことはありません」。私は深々と頭を下げた。「先生がまいど君がゆくを再開してくれて、本当に感謝しているんです。本来なら、先生はまいど屋を助ける義理など全くなかった。新しい場所で、新しい生活を始めればそれでよかったんです。先生はどうして僕の前にまた現れたんですか?」
  「偽装死亡する計画の段階から、まいど屋のことが気になっていた。途中で放り出すことに気が引けていた」
  「だから前もって、僕に覆面姿を見せた?」
  「そうだ。君が覆面の人間にどんな反応を示すか、確認しておきたかった。君が覆面を見て逃げ出すか、叫びだすようでは今木商事とは仕事ができないからね。だが、君は落ち着いた様子で覆面を受け入れた。私はそれでうまくやっていけると思ったんだ」
  「そんなに落ち着いてはいなかったんですがね」。私はあの夜、新幹線の窓にくっきりと浮かんでいた今木商事の覆面を思い返した。そして彼の隣で、体中の筋肉を固くこわばらせていた私自身の、あの麻酔をかけられたような感覚を。「ところで、僕があの日、広島に出張に行くことをどうして知っていたんです?」
  「そんなのは君」、と藤井先生は愉快そうに笑った。「調べるのは、偽名を使ってまいど屋に電話をすればわけもないことだ。電話に出たスタッフに、適当なメーカーを名乗って君のスケジュールを尋ねればいい。向こうはかしこまって、すぐに教えてくれるよ」
  「そこまでお手間をかけて、せっかく再開していただいて、これで終わりとはもったいないですね」。私はテーブルの上に無造作に広げられた2枚の原稿を指差した。「何とか続けていくわけにはいかないのですか?」
  「無理だろう」、と藤井先生は寂しげに言った。「俺はこっちに移ってから今木商事の名前を使い始めた。そして藤井とは作風の違う作品を発表することで、生計を立ててきた。業界の誰にも知られずに、うまくやる自信はあった。ところが、まいど君がゆくを見た昔の知り合いたちが、何か怪しいと思い始めた。まず、女房の周りがよそよそしい態度をするようになって、彼女はそれでかなり気を病むようになった。最近じゃ毎晩、友人たちがひそひそと何か噂しているようだって、俺の所に泣きついてくる。俺の所にも夜中におかしな電話がかかってくるようになった。何もかも知ってるぞって一言だけ言って切るような類の嫌がらせ電話だ。それでこれはいよいよ危ないと思って、まいど君がゆくの路線を変えてみようと真剣に検討したんだ。藤井的ではない、今木商事のテイストを持った新しいまいど君だ。だが、うまくいかなかったよ。まいど君がゆくは、俺の身体に深く染みついてしまっている。俺はそこから逃れ出て新しい世界に行くことはできなかった」
  「東京に戻って何を?」
  「いくつかの連載が決まっている。名前はもちろん偽名だ。俺は昔から、いろんな名前で作品を売ってきた。業界の連中は、誰もそのことを知らない」
  「うまくいくことを祈ります」
 
  私は改めて礼を言い、今木商事の自宅を辞した。外は相変わらず雨が降り続いていた。私は傘もささず、駅の方向に向かって歩き始めた。そうする他はない。駅から離れた地方都市の住宅地に、タクシーなどうろついているはずはないのだ。
  幾分下りになっている一本道が、ちょうどその家を起点に南の方角に真っ直ぐ続いていた。バスが走っているはずの大通りの角は、まだずっと先にある。その角にたどり着くまでの間、私は藤井先生が玄関の外に出てきて私を大声で呼び戻すのではないかと何度も後ろを振り返った。だが、先生は出てこなかった。雨戸が閉ざされた古びた一軒家の中で、先生は何事もなかったようにあの描きかけのマンガに向き合っているのだろう。あと2ページ。それが完成すれば、原稿は尾島君を通してまいど屋に送られてくる。そして先生は東京で、私の知らない名前を使って、私の知らない作品を描きはじめる。家はどんどん遠ざかっていく。私は雨に濡れながら、また後ろを振り返る。
 
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