【自重堂】ディープスロートの憂鬱image_maidoya3
とっておきのネタがある、と男の声が言った。しばらく暖かな日が続いた後、思い出したように寒さがぶり返していた3月初めの夜のことだった。風が携帯の送話口を吹き抜けていく音がひっきりなしに聞こえ、声はくぐもって聞き取りにくかったが、あの男に間違いなかった。
  ほう、それはいい、と私は明るい声で男に答えた。それから編集部が一番忙しい時間帯に、相変わらず名乗りもせずに用件を切り出してくる男に多少の反感を覚え、「で、君は誰なんだ?」と空とぼけてみせた。
  男は馬鹿にしたようにフンと言ったきり、私の質問には答えなかった。男の背後でトラックのクラクションがしきりに鳴らされていた。それからイッツ・ア・スモール・ワールドの陽気なメロディーが男の頭上を流れていくのがかすかに聞こえた。巨大な風洞の中を進んでいるみたいに風の音が強くなり、それが男の息づかいを掻き消していた。
  「ブツを見たいだろう?」唐突に男が言った。「これからそっちに行ってもいいか?」
  「迷惑だと言ったら?」
  「迷惑にはならないさ。行ってもいいか?」
  来てもいい、と私は言った。そう言う以外に選択肢はなかったのだ。男が口にするセンテンスはいつものようにお願いの形を取っていたが、それはほとんど通告と同義であることを私は経験上知っていた。
  「ネタは何だ?上物だろうね」
  「会って話す。内容を録音してもらっても結構だ。ただ、写真は撮らないでくれ。それは困る。わかっていると思うが、了承してくれればそちらに出向く」
  もちろん私にはわかっていた。男はかの有名なディープスロートなのだ。昼間に接触してくることはなく、闇夜に紛れてやってくる。男の証言は情け容赦がなく致命的であり、世の中を変えてしまうほどとても重大だが、証言者に関する痕跡は一切残さない。誰もがその正体を知りたがるが、決してそれが明かされることはない。これまでずっとそうしてきた。男とまいど屋は、そうやってお互いの身体から染み出る脂をすすりあってきたのだ。
  「了承するよ。もう近くまで来たんだろう?ピノキオによろしく」
  「え?」
  「世界中、どこだって、笑いあり、涙あり、みんなそれぞれ助け合う、世界は狭い、世界は同じ、世界は丸い、ただひとつ。もう川口駅にいるんだろう?さっき7時の時報が聞こえたぜ。上を見ろよ。デパートのでかい時計からピノキオが出てきて歌うんだ」
  「知ってたんだな。じゃ、すぐに行く」
  男はホッとしたようにそう言って、電話を切った。それから10分ほどで、男はまいど屋のオフィスに入ってきた。前回会った時と同様、黒いコートを前でぴったりと合わせていた。顔は幾分青ざめ、疲れ切ったように両目がくぼんでいた。右手にはずっしりと重そうな黒のボストンバッグを提げていた。私が顎をしゃくると無言で頷き、バッグを開けて中を見せた。そこには、業界中がその詳細について確認を取ろうと必死になっている、自重堂の空調服のサンプルがぎっしりと詰まっていた。
 

自重堂
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マキタ製のセンターファン(フック付き)
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ファンはファスナーでセッティング
日産のCMではないが、世の中には2種類の人間がいる。つまらないことをさも重大なことのように大げさに話したがる人間と、ただごとではないことを駅前で配られるティッシュペーパーみたいに無造作に相手に伝える人間だ。男は後者のタイプだった。だからこそ、私は男の発する言葉を、注意深く拾い集めなければならなかった。退屈そうな物言いの中に、何かがぼそりと呟かれる。重要な情報がレジに置き捨てられたコンビニのレシートのように放置される。何がゴミで、何が本当の宝だかわからない。男とはそれなりに長い付き合いをしてきた私でさえ、そうした取捨選択の判断を誤ることがよくあった。もちろん、念のためにレコーダーを回してはいるのだが、それに頼ることは賢明だとは言えなかった。男の声はぼそぼそと聞き取りづらかったし、後から再生する音声は大抵雑音がひどく、使い物になったためしなどほとんどなかった。
  私は神経を研ぎ澄まし、男が無言で続けている動作を見守った。ビニール袋に入ったウェアやらバッテリーやらケースやらがボストンバッグから取り出され、デスクの上に置かれていった。几帳面に間隔と角度を揃えて並べられていくパーツは、まるで税関で押収された密輸品のようだった。室内には物音ひとつせず、ビニール袋が擦れ合う音だけがかさかさと響いていた。
  「エアコンジャケットだ」、と男が囁くような声で言った。「何度も言うけど写真は撮らないでくれよ。万一俺のことが知られたら、引き起こされる結果は相当悲惨なものになる。あんたもまいど屋さんも、その責任を取れるような力を持っていない」。
  「誰に知られると困るんだ?僕に密会したことがわかると、お宅の奥さんがヒステリーを起こすのか?」
  男は私の軽口には取りあわず、俺自身ですら責任が取れないと呟いて私を睨みつけるように見た。それからテーブルの右端にひとつだけぽつんと除けられていた黒いプラスチック製のケースを指し示した。それは押収物もどきの品々の中でひときわ目を引くものだった。メガネケースを大きくしたような形の黒い物体で、まん中にMakitaのロゴがある。私はそれを恐る恐る手に取った。王家の谷の固く閉ざされた石室を荒らしに来た盗賊のような気分だった。桟の間から中をのぞくと、そこにはファラオの副葬品のようにひっそりと、2つのファンが並んでいた。
 
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  男が自らの身の危険を賭してまいど屋に持ち込んできたエアコンジャケットは、背中に取り付けられた電動式のファンがウェア内に空気を送り込むことで劇的なクールダウン効果を発揮する、いわゆる「空調服」と称される夏のキラーアイテムだ。それは公式には存在が否定されていた、幻のウェアだった。自重堂が空調服を作るらしいという噂は、去年の暮れあたりから業界内でしきりと囁かれていたのだが、そうした噂を一笑に付す自重堂自身の態度を見て、業界関係者は、ああやっぱりそんなはずはないよねと納得し始めていたところだった。当時、空調服の唯一のサプライヤーであったサンエスは、数えきれないほどのパテントで守りをしっかり固めており、新規参入は不可能に思われていたのだ。それが今、目の前に置かれている。男がまいど屋に持ち込んできたのは、デザイン上の多少の違いはあるにせよ、紛れもなく空調服だった。
  私は大きく息を吐き、ファンを装着する前の穴の開いたジャケットを手に取った。自重堂がこのジャンルに新たに参入してくる以上、その準備には膨大な時間と資金が投じられているのは容易に想像ができた。もちろん、パテントの問題もクリアされているのだろう。彼らほどの組織が、その辺りの調整をおろそかにするはずがない。何もかもが整然と、そして秘密裏に、完璧な情報統制の中行われてきたはずだった。
  「見ての通り、自重堂はセンターファンだ」と男が言った。「サンエスは両脇ファンだが、エアコンジャケットはセンターファンで1ヶ所付け。これは特許の関係でね。とはいえ、ケースの内側にファンを2つ収納しているので風量はある」。
  「真ん中1ヶ所より、両脇2つの方が空気の流れがいいだろう?」
  「そうでもない」。男が不敵な顔で笑った。「確かに空気が全身に行き渡るまで多少のタイムラグはあるが、そんなことは大した問題じゃない。一旦空気が循環し始めちまえば同じなんだ。それより、もっと面白い話がある」。
  「上ネタか?」
  「まいど屋がそう取ればそれは上ネタだ。いいか、空調服が主にどんなユーザーに使われているか、知ってるか?」
  まいど屋の業務を通じて私はそれを知っていたが首を横に振った。男は疑い深そうに私を見たが、諦めたように肩をすくめてまた話し始めた。「たくさんの職人さんが使ってるんだ。その数は他の職種に比べても圧倒的だ。乱暴な言い方をすりゃ、要するに空調服は職人さんの服ってわけだ。ところで、その職人さんたちは現場で日常的に電動工具を使っている。つまり、いつも電源を持ち歩いているんだよ。しかも、それが一般の空調服用に出回っている電源より、はるかに上等だときている。そこで自重堂はバッテリーとファンの供給をマキタにお願いした。これが何を意味するかは、賢明なあんたならわかるだろう」。
  私は再び首を振ったが、男は今度はそれに見向きもしなかった。「よく考えてみてくれ。高性能な電源を持ち歩いている人間に、新たにスペックの劣る電源を揃えてもらう必要がどこにある?あるものを使ってもらえばいいじゃないか。自重堂のファンはマキタのバッテリーで動く。マキタといえば世界にその名が知られた電動工具の最大手メーカーで、国内シェアはナンバーワンだ。つまり、多くの工務店やゼネコンが持っているマキタ・インパクトドライバーのバッテリーがエアコンジャケットにそのまま使えるんだ」。
  ファン付きブルゾンを一式揃えると軽く3万円越えしてしまうが、インパクトドライバーを持っていればバッテリーと充電器を購入する必要がなく、1万円台前半で収まる。男が示唆した通り、今まで予算の制限があって二の足を踏んでいた会社でも、これなら社員用のユニフォームとして導入する動きが出てくるかもしれない。「その程度であれば、ほとんどの会社にとっては納得できる経費だろう。それでも高額だというのなら、資材として予算を組むという手だってある」。
  インパクトドライバーのバッテリーは14.4Vもしくは18V。それぞれ1.5Ahから6.0Ahまで5種類あり、そのどれもがエアコンジャケットに使える、と男は言った。そしてこの他、園芸用の電動工具などで使われる10.8Vのバッテリーにも対応させてあると付け加えた。「10.8Vはインパクトユーザーではない、バッテリーを含めて調達を考えている一般のひとにとって有力な検討候補になる。安く上がるし、性能だってファンを動かすには十分だからだ」。
  なお、バッテリーはホルダーに入れてベルトに付けてもいいし、ウェアの内ポケットに入れてもいいらしい。
 
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  時間が経つにつれ、男が明かす情報はいよいよ具体的になり、スペックの詳細にまで及んできた。それはエアコンジャケットの心臓部となるファンとバッテリー関連を中心とした極秘事項で、メーカーとしては最後まで秘密を守り通したいトップシークレットのはずだった。
  「風量はHigh(強)、Medium(中)、Low(弱)の3段階ある」と、男は言った。「18V/6.0Ahなら約55分の充電で『強』で17時間、『中』で31時間使える。14.4Vでも6.0Ahなら同じく55分の充電で、『強』なら11時間持つ。ま、作業環境に左右されやすいから、あくまでも目安だが」。
  「最大Ahで稼働時間を自慢されてもね。低・中クラスはどうなんだ?充電時間を含めて」
  「最小の1.5Ahなら約15分の充電で2.5時間(14.4V)とか、3.5時間(18V)とか。4.0Ahなら36分の充電で6.5時間(14.4V)。18V なら9時間持つ。どれも『強』の場合で」
  「それはまた、ずいぶん充電時間が短いんだな」
  「最も長くて約60分(10.8V/4.0Ah)。これで『強』で7時間使える。夜、充電するのを忘れても、昼休みに充電すれば、最も暑い午後の時間帯を乗り切れる」
  「欠点は?」
  「もちろんある。センターファン方式だから、Y字ハーネスが付けられない。それと、通常なら、空気が循環するまで10秒ぐらいかかっちまう。それが我慢できないせっかちな人間のために、秘密のボタンを付けてあるんだがね。押すと、約1分間、強力なターボモードになって素早く冷却できるって寸法だ」
  それから男はウェアの仕様について話し始めた。リリースされるのは全部で3種類。どれも首筋を冷やして涼しく着られる立ち衿タイプで、空気が漏れないように目の詰まった生地を使っている。「ポリエステル65%、綿35%の『86900』は、汎用性があって業種を選ばない。綿100%の『86910』は鉄工所など火を扱う現場で。ポリエステル100%の『86920』はゼネコンや倉庫作業、ハウス栽培などに。いずれのモデルもファン付きを基本としているが、洗い替えが必要ならファンなしタイプがあるので、それを揃えておけばいい」。
  男はブルゾンを手にして内側を見せると、胸ポケットに空いた穴を指差した。「最後にもう一ついいことを教えてやろう。この穴にコードを通せば、スマホをポケットに入れたまま充電できる。バッテリーホルダーにはUSB単子が付いているんでね」。
 
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  男がようやくその長い話を終えたとき、時計の針はもう10時を回っていた。私はぐったりと疲れ切っていた。メモを取り続けていた私の右手は、指の付け根から肘のあたりまで、金属製のギブスをはめられたように固くなっていた。テーブルに放り出されていたウェアやファンを男がボストンバッグに詰め込んでいくのを、私は黙って見守った。それらは近い将来、業界中の話題を集めることになるはずの、超一級の極秘情報そのものだった。業界動向について日常的にインパクトのある話題が持ち込まれ、それを報じ続けてきた月刊まいど屋にとってさえ、めったに巡りあうことのない特ダネだった。
  「そういえば、今朝からスマホの重さを測ろうと思っていたんだが、今やってもいいか」、と私は男に訊いた。男は一瞬ぎょっとしたように動きを止めたが、すぐにふてくされたような表情で、「ああ、スマホの重さを知っておくことは、とても大切なことだ」と呟いた。
  私は尻のポケットからスマホを取り出し、自分の目の高さに持ち上げた。男は無表情でバッグから再びいくつかのウェアを取り出し、それを私の前で広げて見せた。一枚のウェアにはまだファンが付いたままだった。私は夢中でシャッターを切った。もちろん、男の姿がその中に写り込まないように注意しながら。それから内線でスタッフの一人を部屋に呼び、着用写真も撮影した。エアコンジャケットがセンターファン方式であることがはっきりわかる、貴重なスクープ写真だった。
  「わかっていると思うが、しばらくこの話は表に出さないでもらいたい。さもなきゃ、いろいろと都合の悪いことが起こるんだ。厄介ごとが好きではないなら、時期が来るまで大人しくしていることだ」
  「面倒が起きるとどうなる」
  「まず第一に、俺の身が危なくなる。それからあんたには二度と会えなくなる。猛烈なストレスで俺に余裕がなくなれば、女房の機嫌も悪くなる」
  わかった、と私は言った。「僕は何も聞かなかった。何も見なかった。今夜遅くなったのは、旧友と二人でピノキオを誘い、ダンスを踊っていたためだ」
  男は乾いた声で笑った。「聞き分けがいい人間は、長い目で見れば結局は得をするんだ。自分勝手な振る舞いで手に入るのは、すぐに消えちまう優越感と周りからの不信感だけだ。そうなりゃ次のチャンスは永遠にやってこない」。男はそう言って立ち上がり、憂鬱そうな顔でボストンバッグを引き寄せた。「こうしてわざわざ情報をリークしたって、俺に得るものは何もない。ただリスクをしょい込んだだけだ。払戻金がゼロのあんたに賭けようという気になったのは、あんたがやっぱり聞き分けがいい人間だと確認しておきたかったからだ」。
 
  もちろん私は男との約束を守り、今月号の月刊まいど屋でこうしてレポートを発表するまで、あの夜のいきさつについて沈黙し続けた。そして読者の皆さんがご承知の通り、本日、7月1日を迎えたときには、あのエアコンジャケットは既に販売が開始されており、その存在は広く世間の知るところとなっていた。今頃になって、エアコンジャケットについてあれこれ得意気に語ったところで、それは特段注目すべき要素が全くない、ごくありきたりでほとんど一般常識に等しい情報になり果てていた。だが、私はそれでよかったのだと思う。男は賭けに勝ったのだ。恐らく、彼はまたいつか闇夜に紛れてふらりとまいど屋のオフィスにやって来ることになるだろう。聞き分けがいい人間は、長い目で見れば得をする。他の人間が口にするとナイーブに聞こえる男のその言葉を、私は今なぜか強い共感を持って信じる気になっている。
 
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