ここに二葉の写真がある。ひとつは数年前に撮影されたものだが、四隅が折れ曲がり、表面がセピア色に変色しかけているため、もっと昔のものに感じられる。写真の中央では一人の女がカメラの方に手を差し出し、撮影者に向かって何か言おうと口を開きかけている。眼差しは優しく、恐らくはその撮影者に対する感情が、無意識のうちに表れていると言えるかもしれない。もちろん、その表情を観察する人間によっては違う意見を持つこともあるのだろうが、少なくとも僕は、女がそのときに抱いていたはずの特別な感情を、ほとんど誤解しようのない絶対的な真実であると信じてきた。
もうひとつの写真はごく最近のもので、やはり女が写っている。女はまいど屋のオフィスのある建物の玄関の前で後ろを振り返ろうとしている。今まさにこちらに向けられつつある横顔は、長い髪に隠れてほとんどうかがえない。この後、彼女は何を話したのだろう。あるいは何を言わなかったのだろう。残念ながら、僕はそのときのことをよく覚えていない。ただ、細身のデニムを穿いた女の、陽炎にも似た美しい後ろ姿だけが強く印象に残っているだけで、肝心のやり取りについては、あのセピア色の写真よりもずっと前のことに思えてしまうのだ。
もし今、僕の手元にある写真を読者の皆さんに見せたとしたら、恐らくそれぞれの写真に写った女が同一人物であるとはとても信じてもらえないであろう。僕自身ですら、それらの写真を見比べていると、ときどきふたりが全くの別人であったのではないかと思うことがある。わずか数年の歳月を隔てただけのひとりの女が、どうしてこれほど違った雰囲気を醸しだすのか、今でも僕にはうまい説明が思いつかない。ただ僕は、その女と関わりを持ったそれぞれの時間で、それぞれの女に強く惹かれていた。そして排水溝に流されていく石鹸の泡みたいに、くるくると回りながら暗い穴の中に吸い込まれていったのだ。
一枚目の写真が撮影されてから数年の間、夜になると僕はそれを今自分が座っているデスクの引き出しから取り出してじっと眺めるのが習慣になっていた。新たに加わった写真も早晩角が折れ曲がり、その中にいる彼女の後姿もまた色褪せていくのだろう。彼女はその横顔を僕に振り向け、何を言ったのだろう?そしてどこに消えたのだろう?そもそも、あの女は本当に彼女だったのだろうか?
これからここに記す物語は、そんな僕のあいまいな記憶を頼りに再現されたものであるから、いろいろと辻褄の合わない部分が出てくるかもしれない。そしてもしも読者の皆さんがそうした些末な部分を捉えて僕の話を嘘だと決めつけたとしても、あるいは常識ではいささか説明のつかない話の流れに僕の無意識が作り上げた作為を感じ取ったとしても、僕はそれに対して一々反論する気にはなれない。僕が皆さんの立場ならば、おそらく同じ感想を持つだろう。僕はただ、その夜に僕の前を通り過ぎて行ったと僕が信じることだけを注意深く、自分自身に対して誠実に書く。そしてそうすることで、現在僕が抱えているやり場のない喪失感が少しでも紛れればと思っている。
もうひとつの写真はごく最近のもので、やはり女が写っている。女はまいど屋のオフィスのある建物の玄関の前で後ろを振り返ろうとしている。今まさにこちらに向けられつつある横顔は、長い髪に隠れてほとんどうかがえない。この後、彼女は何を話したのだろう。あるいは何を言わなかったのだろう。残念ながら、僕はそのときのことをよく覚えていない。ただ、細身のデニムを穿いた女の、陽炎にも似た美しい後ろ姿だけが強く印象に残っているだけで、肝心のやり取りについては、あのセピア色の写真よりもずっと前のことに思えてしまうのだ。
もし今、僕の手元にある写真を読者の皆さんに見せたとしたら、恐らくそれぞれの写真に写った女が同一人物であるとはとても信じてもらえないであろう。僕自身ですら、それらの写真を見比べていると、ときどきふたりが全くの別人であったのではないかと思うことがある。わずか数年の歳月を隔てただけのひとりの女が、どうしてこれほど違った雰囲気を醸しだすのか、今でも僕にはうまい説明が思いつかない。ただ僕は、その女と関わりを持ったそれぞれの時間で、それぞれの女に強く惹かれていた。そして排水溝に流されていく石鹸の泡みたいに、くるくると回りながら暗い穴の中に吸い込まれていったのだ。
一枚目の写真が撮影されてから数年の間、夜になると僕はそれを今自分が座っているデスクの引き出しから取り出してじっと眺めるのが習慣になっていた。新たに加わった写真も早晩角が折れ曲がり、その中にいる彼女の後姿もまた色褪せていくのだろう。彼女はその横顔を僕に振り向け、何を言ったのだろう?そしてどこに消えたのだろう?そもそも、あの女は本当に彼女だったのだろうか?
これからここに記す物語は、そんな僕のあいまいな記憶を頼りに再現されたものであるから、いろいろと辻褄の合わない部分が出てくるかもしれない。そしてもしも読者の皆さんがそうした些末な部分を捉えて僕の話を嘘だと決めつけたとしても、あるいは常識ではいささか説明のつかない話の流れに僕の無意識が作り上げた作為を感じ取ったとしても、僕はそれに対して一々反論する気にはなれない。僕が皆さんの立場ならば、おそらく同じ感想を持つだろう。僕はただ、その夜に僕の前を通り過ぎて行ったと僕が信じることだけを注意深く、自分自身に対して誠実に書く。そしてそうすることで、現在僕が抱えているやり場のない喪失感が少しでも紛れればと思っている。
三段鳶
僕の背後で突然女の声がした。そのとき、僕は今月号の月刊まいど屋の特集に掲載する寅壱の原稿を書いている最中で、時計の針は夜の12時を回ったところだった。原稿はほぼほぼ出来上がっていて、あとは細かな文章の流れに手を入れるだけの段階だった。僕は比較的リラックスした気持ちで、画面に映し出された最終稿に意識を集中し続けていた。
オフィスにはもちろん僕の他には誰もいなかった。だからその声が聞こえたときには、その発声が意味することがすぐに理解できずに、それは聞こえなかったことにすることにして自分の作業を続けようとした。僕は周囲に人が誰もいない時でさえ、シリコン製の耳栓を耳の穴に強く押し込み、その上に工事現場で使うイヤーマフをかぶせて仕事をする。視野を狭く、そして薄暗くしてくれる遮光メガネだってかけている。そうすることで僕は僕の世界に住むただ一人の住人として、自分の思い通りに世界を作り替えることができるのだ。そう言えば、昔、マイケルジャクソンも何かの雑誌のインタビューで同じようなことを語っていた。サングラスをかけ、白い手袋をはめると私は私からマイケルジャクソンになる、と彼は言う。そして僕は、耳栓とイヤーマフを付け、JINSの遮光メガネをかけると編集長になる。そうした状況下では、定期的におかしな声が聞こえてこない方がおかしいのだ。
再び女の声が僕の名を呼んだ。今度は空耳などではなく、誤解の余地など一切ない、明らかな自分の名前のようだった。イヤーマフと耳栓を外して僕が振り返ると、女がそこにいた。
「無視するなんてひどいじゃないの」、と女が言った。僕はしげしげと女の顔を眺めた。それは僕がよく見知った顔だった。それどころかこの2年間、片時も忘れたことのない顔だった。そしてよく考えてみれば、その声だって僕が再び聞くことをずっと願っていたあの声だった。それにもかかわらず、僕にとってその女は、全くの初対面のように感じられた。
久しぶり、と女が言った。久しぶり、と僕は答えた。それから女は、「どうして私がここにいるのか訊かないの」、と言って僕の顔を覗き込んだ。
「どうして君がここにいるんだ?」
「教えないわ」
僕は腰かけていた椅子を引き、メガネを外して女を再びじっと見た。女は真っ赤なチャイナドレスをスラリと着こなしていた。胸元はV字型に大きく開き、腰まで切れ上がったスリットからは透き通るほど白いももがチラチラと見えていた。背の高いピンヒールは、土の上を歩いたらめり込みそうなほど尖っていた。外国の高級ブティックの店員が使うような品のよい香水の香りが、女が髪をかき上げるたび、僕の方に流れてきた。
「私はあなたに会いに来たのよ。東京に出張に来たらあなたに会いたくなって、ホテルを抜け出して来たのよ」
「君は僕に会いに来た。出張中にホテルを抜け出してここに来た」
「バカにしてるの?それとも頭が上手く働かないの?何か言うのなら、もっと慎重に言葉を選んでからにしなさいよ」
「いや、バカにしていない。頭は普通に働いていると思う」。僕は慎重に言葉を選んだ。「ただ、驚いているんだ。なぜ、事務職の君が出張に出るんだ?会社には営業がいるだろう?それにどうしてそんなドレスを着ているんだ?」
「そんなにいっぺんに質問されたら答えられないわ」。女は呆れたように僕を見て言った。「それに、あなたはする質問を間違っているじゃない。あなたは私に、あれからどうしてたって訊くべきなのよ。それに対して、私は寂しかったと答えるわ。ずっとあなたに会いたくて、それで会社に頼んでやっと営業にしてもらったのよ。それでも最初は関西の担当になってしまって、こっちの方には来られなかった。それで今のままなら会社を辞めるって言ったら、ようやくOKが出たのよ。それと、もう一つの質問は何だっけ?ああ、そうそう、5時を過ぎて仕事が終われば、何を着ようと私の自由なのよ。どう?似合うでしょ」。
女は指で腰のスリットをつまみ、上下に揺らせておどけたような笑みを見せた。2年前、月刊まいど屋の取材で最後に会った時と同じ松崎さんの笑顔が一瞬そこに浮かんだが、目の前の女はすぐにまた僕の知らない顔に戻っていた。はるか昔、前世で深いかかわりを持った時の記憶が、不思議なタイミングで時折懐かしく呼び起されるような顔だった。僕は何となく、カポーティの小説に出てくるホリー・ゴライトリーのことを思い出していた。
「営業って、君はまいど屋の担当なのか?」
「そうよ。でも、会社には私が自分で伝えるから、連絡しないでくれって頼んだのよ。きっと、あなたを驚かせたかったんだわ」。女は他人事のようにそう言うと、足元に置いたヴィトンのスーツケース指差した。茶色い長方形のボディーにはLとVを組み合わせたお馴染みのロゴがちりばめられ、角には金の留め金が付いていた。「ちゃんと商品サンプルも持ってきたわよ。ここまで持ち上げてくるのは、けっこう大変だったのよ」。
確かに重そうなスーツケースだった。僕が仕事をしているオフィスは建物の2階だから、彼女は階段を使い、ひとりでそれを引っ張り上げてきたはずだ。外でリムジンのエンジンを切って待っている専用の運転手がいない限りは。
「あなたに紹介したい商品があるのよ。どうせ月刊まいど屋のネタに困っているんでしょう?」。女はそう言って、僕のパソコンを覗き込んだ。それから、画面いっぱいにびっしりと文字が綴られている原稿を目にして大げさに顔をしかめ、「何を書いているの」と僕に訊いた。
「寅壱の記事だ。次回は鳶特集なんだ」
「寅壱なんかダメよ!」女は即座に言い切った。「取材なんかしたって、鳶の新商品なんかありはしないわよ。あそこは今後、普通ワーキングに力をいれようとしているの。せっせと原稿なんか書いたって、お客さんをがっかりさせるだけなのよ」。
確かに鳶服の新商品はなかった、と僕は正直に言った。それからパソコンの画面を女に向けながら、僕がいかに苦労して鳶的な雰囲気の文章に仕上げたかを説明した。少しムリがあるにしても、せっかく岡山まで出かけて担当者にインタビューをしたんだから仕方がないんだ、と僕は言い訳するように言った。なぜ彼女に対して僕が僕の仕事について言い訳しなければならないのか、僕には明確な理由が思い浮かばなかったけれど、とにかく僕はなにかとても悪いことをしてしまったような気になっていた。「だけど、出てきた新商品だって、見方を変えれば鳶さんが興味を持たないこともないと思う」、と僕は女をなだめるように言った。
女は興味なさそうに僕の話を聞いていたが、急に僕の膝に後ろ向きにまたがってパソコンに向かい、マウスを掴んで原稿が書かれたワードの画面を閉じた。それから「寅壱」とタイトルが付けられたワードのアイコンをドラッグして「ゴミ箱」に放り込むと、「ゴミ箱を空にする」をクリックしてゴミ箱を空にした。その間、僕はただ、一連の操作を行う女の背中を見守っているだけだった。そして僕の腿に伝わってくる女の柔らかな弾力と暖かさを感じているだけだった。そうしているわずか数十秒の間に、僕の原稿はあっけなくこの世から消滅したのだ。
「本当に時間がないんだ」と言って僕は首を振った。「原稿はほとんど完成していたんだ。苦労して書いたんだ。もう来月号に間に合わないじゃないか」。
「だから私がサンプルを持ってきたんじゃない」
女は僕の膝から立ち上がると、しゃがんでスーツケースの留め金を外し、床の上でケースを左右に開いた。中には鳶服らしい商品がきれいに畳まれて重ねられていた。
********** ********** ********** **********
「あなたは三段鳶の原稿を書けばいいのよ」、と女はしゃがんだまま僕の方を振り返って言った。僕はケースの中の商品よりも、スリットから見える彼女の脚の方ばかりに気を取られていた。
「君はティファニーでメシを食うことがあるのか?」
「じゃあ、あなたは作家志望で、雑誌に原稿を持ち込んでいるの?」
「なるほど、君もカポーティを読むんだな」
私は映画を見ただけよ、と女は言った。それから急に営業の顔になって話題を変えた。目まぐるしく表情を変える顔だった。やっぱり彼女はホリー・ゴライトリーだと僕は思った。
「今回、ウチの三段鳶は鳶服の新商品ラッシュなのよ。あなたにはイメージを掴んでもらいたいから、今日は特別に私がモデルになって着用して見せてあげるわ」
女はケースの中から黒いコンプレッションシャツをつまみあげると、私の前でひらひらと振った。それからおもむろにドレスの肩ひもを外した。真っ赤なドレスが女の身体を滑り落ち、くるぶしの高さでようやく止まった。よくしつけられたゴールデンレトリバーが床に伏せをしているみたいに、それは女の足元に大人しくとどまっていた。女の目は僕を非難するようにこちらに向けられていたが、僕は構わず、黒い下着姿になった女の視線から目をそらさなかった。女の頬には薄く赤みがさしていた。僕がいつも思い返していた松崎さんの顔がそこにあった。
「風邪をひいてしまうよ」と僕は言った。「今夜は思ったよりも冷え込んでいるんだ。早く何か着た方がいい」。
松崎さんの顔をした女は小さく頷き、右手に持っていたコンプレッションをするりと首に通して裾を下まで引き下げた。薄地のコンプレッション生地が女の上半身のラインを、何も着ていない時以上に際立たせていた。ウェア全体に鋭くえぐられたような無数の切り傷があり、そこから覗く女の白い肌が斬新なデザインの一部となって、柔らかな曲線を描くシルエットに湿り気を帯びた陰影を与えていた。
それから女は再びスーツケースの中を漁って超超ロングを引っ張り出し、僕に左肩を支えられながらそれを穿いた。それは腿から下がシースルーになった不思議な超超ロングだった。素材は柔らかなシフォンのようで、女の細い両脚が、薄くオレンジがかったふくらみの下に美しい影を作っていた。それが南国のビーチの夕焼けで目にするグラデーションのように見え、上着のコンプレッションの黒を効果的に引き立てていた。
「写真は撮らないでね」と女は言った。「あなたは私の姿を目に焼き付けるの。それで、私がいなくなってから、私を思い出して感じたままを原稿に書くの」。
「わかった。僕は写真を撮らない。君の姿を目に焼き付けてそれをいつでも思い出すことにする」
女はその後も僕の目の前で次々と新作の商品に着替えては、僕が十分にイメージを掴めるようになるまで僕の前でポーズを取った。まるでランウェイを優雅に歩くパリコレのモデルみたいに軽やかに。そしてフラメンコを踊るジプシーのように、僕が当惑するほど肉感的に。僕は頭の中で何度もシャッターを切って女のすべてを自分の中に取り込もうとした。今や、僕が初めに女に抱いた違和感は消え去っていた。女は僕がずっと会いたいと願っていた松崎さんに違いなかった。僕たちは2年の歳月を乗り越え、再びひとつになった。
やがて全ての商品を着用し終わると、松崎さんはケースの一番下に残っていたデニムパンツと白のカッターシャツを着てサンプル商品を再びケースの中に仕舞い始めた。僕は横にしゃがんでそれを手伝った。香水の香りはどこかに消えていた。代わりに彼女の首筋からは、懐かしいシャンプーの匂いが微かに漂っていた。
君にはそっちの方がよく似合うよ、と僕は言った。彼女は嬉しそうに頷いた。それから赤いチャイナドレスを丸めて綺麗に畳まれた商品の上に無造作に重ねると、ケースを閉めて金具の留め金を掛けた。
駅まで送ろうという僕の申し出を彼女は頑なに断った。僕は強がりを言うなと彼女を叱った。なぜ、こんな素敵な再会の後に強がらなくてはならないのだろう?運転手など待っているはずがない。こんな時間にバスなど動いているはずもない。恐らくタクシーだってつかまらないだろう。そう言えば、彼女は一体どうやってここまで来たのだろう?彼女が僕の後ろから声を掛けたときには既に12時を回っていたのだ。
僕がスーツケースを玄関まで運ぶと、彼女はまた見知らぬ女に戻っていた。そして僕からスーツケースをひったくるように奪うと僕の唇に人差し指を当て、「私が来たことを会社に言っちゃダメよ」と囁くように言った。
「営業が取引先に行くのは普通だと思うけど。やっぱり送ろう」
「私は営業じゃないのよ。ただ、あなたを助けに来たのよ」。女は僕に有無を言わせぬ強い口調でそう言うと、スーツケースを引いて駅の方角に歩き出した。僕は無意識のうちにポケットからスマホを取り出し、彼女の後姿に向けてシャッターを切った。彼女が僕に向かって最後に何かを言おうと後ろを振り返ろうとした瞬間に。
********** ********** ********** **********
僕はその後何日か迷ってから、結局、三段鳶ブランドを展開する広島のシンメン本社を訪ねて行った。2年前に抜き打ちで訪問したときのように、いきなり行けば彼女も僕に会うことを拒まないだろうと思ったのだ。それに、彼女が紹介してくれた商品をこの月刊まいど屋の記事にするには、記憶があいまい過ぎて不安があった。商品スペックの細かな確認は、月刊まいど屋を預かる身として、おろそかにできない基本的な仕事なのだ。
僕が受付で来意を伝えると、いつもの担当営業は予想通り出張で不在だった。僕は仕方ないフリをして、対応してくれた女性に松崎さんの名前を告げた。彼女はびっくりした顔をして首を振った。何かに怯えたように言葉を詰まらせると、上役を呼んできますと言って奥に下がっていった。
出てきた上役は僕を応接室に通し、しきりにお茶を勧めた。世間話をだらだらと引き延ばし、なかなか本題に入ろうとはしなかった。30分を過ぎたところで僕はとうとうしびれを切らし、ところで松崎さんはまだ事務でがんばっていますかと、いささか唐突に聞こえる質問をした。それでもかまわないと僕は開き直っていた。もう社交や体裁に構っていられる余裕は僕にはなかった。
「松崎という者はウチにはいません」と、その上役は静かに言った。まるで生徒の間違いを指摘する小学校の先生のような口調だった。
「最近お辞めになったんですか?一体どうしたんです?僕は先日、たまたま偶然に彼女に会ったのですが」
「松崎という者は存じません。どこか別のメーカーさんと勘違いされているのではないでしょうか。私はここに20年もいますが、松崎という人間がうちの社員にいたことはありません」
「そんなはずはないでしょう!」僕は思わず声を荒げた。「僕は2年前、ここで彼女にインタビューしたんだ。その頃は毎日のように彼女と電話で話していたんだ。からかうのは止めてくださいよ。一体彼女に何があったんです?」
「もうこの話題はよしましょう。いくらそうおっしゃられても、松崎なんて事務員はいないんですから話しようがありません」
それから上役は大きく息を吐いて黙り込んだ。口元には取ってつけたような微笑が、引き潮に取り残されて浜辺に転がった流木みたいに貼りついていた。
僕は粘る気力を失った。もちろんシースルーの超超ロングやダメージ加工のコンプレッションも、この場所には存在していなかった。またまた、ご冗談を。そんなもの、あるわけがないでしょう。ウチだって今シーズンは鳶服の新商品はありませんよ。なんせ、寅壱さんですら出してないですからねえ。鳶は死んだんです。少なくとも私はそう思っていますよ。おや、もうこんな時間だ。そろそろ失礼しますよ。ああ、いえ、構わずごゆっくりしていってください。よかったらお茶のお代りを差し上げます。
上役が来客を理由に応接室を出て行っても、僕はソファーから立ち上がることができなかった。僕はここで何をしているんだろう?一体何を見、何を聞いているのだろう?真実は、少なくとも僕にとってのリアルな現実は、どこを探せば見つかるのだろう?
********** ********** ********** **********
僕がここまで綴ってきた物語を、読者の皆さんは信じてくるだろうか。僕はいまだ、混乱の中にいる。自分の記憶を信じられなくなりそうにもなっている。そしてそんな人間が書いた話を、まともに取り合ってくれるひとなどいないのではないか、と思ったりもする。だが、それでもかまわない。僕はこの場を借りて、僕にとっては紛れもない事実であり、同時に前世の記憶のように主観的な物語を書いたのだ。2016年の月刊まいど屋1月号に収録した物語と対をなす本編が、他人にとってとても奇妙に見えるのは、ある意味で当たり前のことなのだ。
最後に編集長の職責上の謝辞として、広島本社の応接室で僕の対応をしてくれたあの上役が、シースルーの超超ロングとダメージ加工のコンプレッションを一笑に付した後、僕に「公式な」新商品だと紹介したアイテムを以下に掲載しておく。残念ながら、松崎さんが僕の目の前で美しく着て見せてくれたあの素敵な鳶服のコレクションは、ただの一点も含まれていないのだが。
オフィスにはもちろん僕の他には誰もいなかった。だからその声が聞こえたときには、その発声が意味することがすぐに理解できずに、それは聞こえなかったことにすることにして自分の作業を続けようとした。僕は周囲に人が誰もいない時でさえ、シリコン製の耳栓を耳の穴に強く押し込み、その上に工事現場で使うイヤーマフをかぶせて仕事をする。視野を狭く、そして薄暗くしてくれる遮光メガネだってかけている。そうすることで僕は僕の世界に住むただ一人の住人として、自分の思い通りに世界を作り替えることができるのだ。そう言えば、昔、マイケルジャクソンも何かの雑誌のインタビューで同じようなことを語っていた。サングラスをかけ、白い手袋をはめると私は私からマイケルジャクソンになる、と彼は言う。そして僕は、耳栓とイヤーマフを付け、JINSの遮光メガネをかけると編集長になる。そうした状況下では、定期的におかしな声が聞こえてこない方がおかしいのだ。
再び女の声が僕の名を呼んだ。今度は空耳などではなく、誤解の余地など一切ない、明らかな自分の名前のようだった。イヤーマフと耳栓を外して僕が振り返ると、女がそこにいた。
「無視するなんてひどいじゃないの」、と女が言った。僕はしげしげと女の顔を眺めた。それは僕がよく見知った顔だった。それどころかこの2年間、片時も忘れたことのない顔だった。そしてよく考えてみれば、その声だって僕が再び聞くことをずっと願っていたあの声だった。それにもかかわらず、僕にとってその女は、全くの初対面のように感じられた。
久しぶり、と女が言った。久しぶり、と僕は答えた。それから女は、「どうして私がここにいるのか訊かないの」、と言って僕の顔を覗き込んだ。
「どうして君がここにいるんだ?」
「教えないわ」
僕は腰かけていた椅子を引き、メガネを外して女を再びじっと見た。女は真っ赤なチャイナドレスをスラリと着こなしていた。胸元はV字型に大きく開き、腰まで切れ上がったスリットからは透き通るほど白いももがチラチラと見えていた。背の高いピンヒールは、土の上を歩いたらめり込みそうなほど尖っていた。外国の高級ブティックの店員が使うような品のよい香水の香りが、女が髪をかき上げるたび、僕の方に流れてきた。
「私はあなたに会いに来たのよ。東京に出張に来たらあなたに会いたくなって、ホテルを抜け出して来たのよ」
「君は僕に会いに来た。出張中にホテルを抜け出してここに来た」
「バカにしてるの?それとも頭が上手く働かないの?何か言うのなら、もっと慎重に言葉を選んでからにしなさいよ」
「いや、バカにしていない。頭は普通に働いていると思う」。僕は慎重に言葉を選んだ。「ただ、驚いているんだ。なぜ、事務職の君が出張に出るんだ?会社には営業がいるだろう?それにどうしてそんなドレスを着ているんだ?」
「そんなにいっぺんに質問されたら答えられないわ」。女は呆れたように僕を見て言った。「それに、あなたはする質問を間違っているじゃない。あなたは私に、あれからどうしてたって訊くべきなのよ。それに対して、私は寂しかったと答えるわ。ずっとあなたに会いたくて、それで会社に頼んでやっと営業にしてもらったのよ。それでも最初は関西の担当になってしまって、こっちの方には来られなかった。それで今のままなら会社を辞めるって言ったら、ようやくOKが出たのよ。それと、もう一つの質問は何だっけ?ああ、そうそう、5時を過ぎて仕事が終われば、何を着ようと私の自由なのよ。どう?似合うでしょ」。
女は指で腰のスリットをつまみ、上下に揺らせておどけたような笑みを見せた。2年前、月刊まいど屋の取材で最後に会った時と同じ松崎さんの笑顔が一瞬そこに浮かんだが、目の前の女はすぐにまた僕の知らない顔に戻っていた。はるか昔、前世で深いかかわりを持った時の記憶が、不思議なタイミングで時折懐かしく呼び起されるような顔だった。僕は何となく、カポーティの小説に出てくるホリー・ゴライトリーのことを思い出していた。
「営業って、君はまいど屋の担当なのか?」
「そうよ。でも、会社には私が自分で伝えるから、連絡しないでくれって頼んだのよ。きっと、あなたを驚かせたかったんだわ」。女は他人事のようにそう言うと、足元に置いたヴィトンのスーツケース指差した。茶色い長方形のボディーにはLとVを組み合わせたお馴染みのロゴがちりばめられ、角には金の留め金が付いていた。「ちゃんと商品サンプルも持ってきたわよ。ここまで持ち上げてくるのは、けっこう大変だったのよ」。
確かに重そうなスーツケースだった。僕が仕事をしているオフィスは建物の2階だから、彼女は階段を使い、ひとりでそれを引っ張り上げてきたはずだ。外でリムジンのエンジンを切って待っている専用の運転手がいない限りは。
「あなたに紹介したい商品があるのよ。どうせ月刊まいど屋のネタに困っているんでしょう?」。女はそう言って、僕のパソコンを覗き込んだ。それから、画面いっぱいにびっしりと文字が綴られている原稿を目にして大げさに顔をしかめ、「何を書いているの」と僕に訊いた。
「寅壱の記事だ。次回は鳶特集なんだ」
「寅壱なんかダメよ!」女は即座に言い切った。「取材なんかしたって、鳶の新商品なんかありはしないわよ。あそこは今後、普通ワーキングに力をいれようとしているの。せっせと原稿なんか書いたって、お客さんをがっかりさせるだけなのよ」。
確かに鳶服の新商品はなかった、と僕は正直に言った。それからパソコンの画面を女に向けながら、僕がいかに苦労して鳶的な雰囲気の文章に仕上げたかを説明した。少しムリがあるにしても、せっかく岡山まで出かけて担当者にインタビューをしたんだから仕方がないんだ、と僕は言い訳するように言った。なぜ彼女に対して僕が僕の仕事について言い訳しなければならないのか、僕には明確な理由が思い浮かばなかったけれど、とにかく僕はなにかとても悪いことをしてしまったような気になっていた。「だけど、出てきた新商品だって、見方を変えれば鳶さんが興味を持たないこともないと思う」、と僕は女をなだめるように言った。
女は興味なさそうに僕の話を聞いていたが、急に僕の膝に後ろ向きにまたがってパソコンに向かい、マウスを掴んで原稿が書かれたワードの画面を閉じた。それから「寅壱」とタイトルが付けられたワードのアイコンをドラッグして「ゴミ箱」に放り込むと、「ゴミ箱を空にする」をクリックしてゴミ箱を空にした。その間、僕はただ、一連の操作を行う女の背中を見守っているだけだった。そして僕の腿に伝わってくる女の柔らかな弾力と暖かさを感じているだけだった。そうしているわずか数十秒の間に、僕の原稿はあっけなくこの世から消滅したのだ。
「本当に時間がないんだ」と言って僕は首を振った。「原稿はほとんど完成していたんだ。苦労して書いたんだ。もう来月号に間に合わないじゃないか」。
「だから私がサンプルを持ってきたんじゃない」
女は僕の膝から立ち上がると、しゃがんでスーツケースの留め金を外し、床の上でケースを左右に開いた。中には鳶服らしい商品がきれいに畳まれて重ねられていた。
********** ********** ********** **********
「あなたは三段鳶の原稿を書けばいいのよ」、と女はしゃがんだまま僕の方を振り返って言った。僕はケースの中の商品よりも、スリットから見える彼女の脚の方ばかりに気を取られていた。
「君はティファニーでメシを食うことがあるのか?」
「じゃあ、あなたは作家志望で、雑誌に原稿を持ち込んでいるの?」
「なるほど、君もカポーティを読むんだな」
私は映画を見ただけよ、と女は言った。それから急に営業の顔になって話題を変えた。目まぐるしく表情を変える顔だった。やっぱり彼女はホリー・ゴライトリーだと僕は思った。
「今回、ウチの三段鳶は鳶服の新商品ラッシュなのよ。あなたにはイメージを掴んでもらいたいから、今日は特別に私がモデルになって着用して見せてあげるわ」
女はケースの中から黒いコンプレッションシャツをつまみあげると、私の前でひらひらと振った。それからおもむろにドレスの肩ひもを外した。真っ赤なドレスが女の身体を滑り落ち、くるぶしの高さでようやく止まった。よくしつけられたゴールデンレトリバーが床に伏せをしているみたいに、それは女の足元に大人しくとどまっていた。女の目は僕を非難するようにこちらに向けられていたが、僕は構わず、黒い下着姿になった女の視線から目をそらさなかった。女の頬には薄く赤みがさしていた。僕がいつも思い返していた松崎さんの顔がそこにあった。
「風邪をひいてしまうよ」と僕は言った。「今夜は思ったよりも冷え込んでいるんだ。早く何か着た方がいい」。
松崎さんの顔をした女は小さく頷き、右手に持っていたコンプレッションをするりと首に通して裾を下まで引き下げた。薄地のコンプレッション生地が女の上半身のラインを、何も着ていない時以上に際立たせていた。ウェア全体に鋭くえぐられたような無数の切り傷があり、そこから覗く女の白い肌が斬新なデザインの一部となって、柔らかな曲線を描くシルエットに湿り気を帯びた陰影を与えていた。
それから女は再びスーツケースの中を漁って超超ロングを引っ張り出し、僕に左肩を支えられながらそれを穿いた。それは腿から下がシースルーになった不思議な超超ロングだった。素材は柔らかなシフォンのようで、女の細い両脚が、薄くオレンジがかったふくらみの下に美しい影を作っていた。それが南国のビーチの夕焼けで目にするグラデーションのように見え、上着のコンプレッションの黒を効果的に引き立てていた。
「写真は撮らないでね」と女は言った。「あなたは私の姿を目に焼き付けるの。それで、私がいなくなってから、私を思い出して感じたままを原稿に書くの」。
「わかった。僕は写真を撮らない。君の姿を目に焼き付けてそれをいつでも思い出すことにする」
女はその後も僕の目の前で次々と新作の商品に着替えては、僕が十分にイメージを掴めるようになるまで僕の前でポーズを取った。まるでランウェイを優雅に歩くパリコレのモデルみたいに軽やかに。そしてフラメンコを踊るジプシーのように、僕が当惑するほど肉感的に。僕は頭の中で何度もシャッターを切って女のすべてを自分の中に取り込もうとした。今や、僕が初めに女に抱いた違和感は消え去っていた。女は僕がずっと会いたいと願っていた松崎さんに違いなかった。僕たちは2年の歳月を乗り越え、再びひとつになった。
やがて全ての商品を着用し終わると、松崎さんはケースの一番下に残っていたデニムパンツと白のカッターシャツを着てサンプル商品を再びケースの中に仕舞い始めた。僕は横にしゃがんでそれを手伝った。香水の香りはどこかに消えていた。代わりに彼女の首筋からは、懐かしいシャンプーの匂いが微かに漂っていた。
君にはそっちの方がよく似合うよ、と僕は言った。彼女は嬉しそうに頷いた。それから赤いチャイナドレスを丸めて綺麗に畳まれた商品の上に無造作に重ねると、ケースを閉めて金具の留め金を掛けた。
駅まで送ろうという僕の申し出を彼女は頑なに断った。僕は強がりを言うなと彼女を叱った。なぜ、こんな素敵な再会の後に強がらなくてはならないのだろう?運転手など待っているはずがない。こんな時間にバスなど動いているはずもない。恐らくタクシーだってつかまらないだろう。そう言えば、彼女は一体どうやってここまで来たのだろう?彼女が僕の後ろから声を掛けたときには既に12時を回っていたのだ。
僕がスーツケースを玄関まで運ぶと、彼女はまた見知らぬ女に戻っていた。そして僕からスーツケースをひったくるように奪うと僕の唇に人差し指を当て、「私が来たことを会社に言っちゃダメよ」と囁くように言った。
「営業が取引先に行くのは普通だと思うけど。やっぱり送ろう」
「私は営業じゃないのよ。ただ、あなたを助けに来たのよ」。女は僕に有無を言わせぬ強い口調でそう言うと、スーツケースを引いて駅の方角に歩き出した。僕は無意識のうちにポケットからスマホを取り出し、彼女の後姿に向けてシャッターを切った。彼女が僕に向かって最後に何かを言おうと後ろを振り返ろうとした瞬間に。
********** ********** ********** **********
僕はその後何日か迷ってから、結局、三段鳶ブランドを展開する広島のシンメン本社を訪ねて行った。2年前に抜き打ちで訪問したときのように、いきなり行けば彼女も僕に会うことを拒まないだろうと思ったのだ。それに、彼女が紹介してくれた商品をこの月刊まいど屋の記事にするには、記憶があいまい過ぎて不安があった。商品スペックの細かな確認は、月刊まいど屋を預かる身として、おろそかにできない基本的な仕事なのだ。
僕が受付で来意を伝えると、いつもの担当営業は予想通り出張で不在だった。僕は仕方ないフリをして、対応してくれた女性に松崎さんの名前を告げた。彼女はびっくりした顔をして首を振った。何かに怯えたように言葉を詰まらせると、上役を呼んできますと言って奥に下がっていった。
出てきた上役は僕を応接室に通し、しきりにお茶を勧めた。世間話をだらだらと引き延ばし、なかなか本題に入ろうとはしなかった。30分を過ぎたところで僕はとうとうしびれを切らし、ところで松崎さんはまだ事務でがんばっていますかと、いささか唐突に聞こえる質問をした。それでもかまわないと僕は開き直っていた。もう社交や体裁に構っていられる余裕は僕にはなかった。
「松崎という者はウチにはいません」と、その上役は静かに言った。まるで生徒の間違いを指摘する小学校の先生のような口調だった。
「最近お辞めになったんですか?一体どうしたんです?僕は先日、たまたま偶然に彼女に会ったのですが」
「松崎という者は存じません。どこか別のメーカーさんと勘違いされているのではないでしょうか。私はここに20年もいますが、松崎という人間がうちの社員にいたことはありません」
「そんなはずはないでしょう!」僕は思わず声を荒げた。「僕は2年前、ここで彼女にインタビューしたんだ。その頃は毎日のように彼女と電話で話していたんだ。からかうのは止めてくださいよ。一体彼女に何があったんです?」
「もうこの話題はよしましょう。いくらそうおっしゃられても、松崎なんて事務員はいないんですから話しようがありません」
それから上役は大きく息を吐いて黙り込んだ。口元には取ってつけたような微笑が、引き潮に取り残されて浜辺に転がった流木みたいに貼りついていた。
僕は粘る気力を失った。もちろんシースルーの超超ロングやダメージ加工のコンプレッションも、この場所には存在していなかった。またまた、ご冗談を。そんなもの、あるわけがないでしょう。ウチだって今シーズンは鳶服の新商品はありませんよ。なんせ、寅壱さんですら出してないですからねえ。鳶は死んだんです。少なくとも私はそう思っていますよ。おや、もうこんな時間だ。そろそろ失礼しますよ。ああ、いえ、構わずごゆっくりしていってください。よかったらお茶のお代りを差し上げます。
上役が来客を理由に応接室を出て行っても、僕はソファーから立ち上がることができなかった。僕はここで何をしているんだろう?一体何を見、何を聞いているのだろう?真実は、少なくとも僕にとってのリアルな現実は、どこを探せば見つかるのだろう?
********** ********** ********** **********
僕がここまで綴ってきた物語を、読者の皆さんは信じてくるだろうか。僕はいまだ、混乱の中にいる。自分の記憶を信じられなくなりそうにもなっている。そしてそんな人間が書いた話を、まともに取り合ってくれるひとなどいないのではないか、と思ったりもする。だが、それでもかまわない。僕はこの場を借りて、僕にとっては紛れもない事実であり、同時に前世の記憶のように主観的な物語を書いたのだ。2016年の月刊まいど屋1月号に収録した物語と対をなす本編が、他人にとってとても奇妙に見えるのは、ある意味で当たり前のことなのだ。
最後に編集長の職責上の謝辞として、広島本社の応接室で僕の対応をしてくれたあの上役が、シースルーの超超ロングとダメージ加工のコンプレッションを一笑に付した後、僕に「公式な」新商品だと紹介したアイテムを以下に掲載しておく。残念ながら、松崎さんが僕の目の前で美しく着て見せてくれたあの素敵な鳶服のコレクションは、ただの一点も含まれていないのだが。
|