【特集2】遺跡が見せる水害との闘いimage_maidoya3
京都府と接する北河内の街・大阪府枚方市。6月18日に起きた大阪北部地震では、菅官房長官に「まいかた市」と読まれてニュースになったのも記憶に新しいが、関西では「ひらかたパーク」でおなじみの超メジャーな街である。
   京都と大坂をむすぶ街道が通り、淀川を使った水運も盛んな古来からの交通の要衝――。となれば、やはり歴史ファンとして気になってくるのは遺跡だろう。
   京阪本線・樟葉駅から南東1.5km、淀川の支流、船橋川が流れるこの一帯は、古くは弥生時代から集落があったことが明らかになっており「船橋遺跡」と呼ばれている。
   一見、なんということもない郊外の景観だが、周辺には古い町並みが残されており、発掘現場のそばでは、二ノ宮神社の「御旅所」が今なお存在感を放っている。
   と、そんなのどかな現場で現在行われているのが、鎌倉時代から室町時代にかけてあったとされる集落の調査である。高速道路の建設が始まって遺跡が破壊されてしまう前に発掘調査をしよう、というわけだ。
   取材は当初7月のはじめを予定していたものの、連日の雨で延期に。結局、梅雨明けの7月中旬に現地を訪れることになった。中四国をはじめ西日本の各地に被害が出た豪雨災害のすぐ後のことである。
   やっとウンザリする長雨も終わったか、と思ったら、間髪入れず襲ってきたのが猛暑。長袖長ズボンの作業服(この取材のために用意した)に、ヘルメット、長靴を借りて現場入りすると、予想していたとはいえ……とてつもなく暑い。
   それでも、発掘現場ではキビキビと作業する発掘スタッフの姿が。調査を指揮する同センターの井上智博さんも、暑さを忘れさせる爽やかな笑顔で迎えてくれた。
 

特集2
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調査区は水に浸った「低湿地遺跡」
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センターの井上智博さん
●遺物が出すぎる? スゴイ現場
 
   今回の調査を担当する大阪府文化財センターは1972年発足。2011年からは公益財団法人として活動している。公共事業をはじめとする大規模開発にともなう調査に実績があり、近年は「隠れキリシタンの地」として知られる大阪府茨木市の千提寺西遺跡(2012~13年)、大坂城三の丸跡(1990~15年)、明治から昭和初期にかけての火薬庫の痕跡が残る枚方市の禁野本町遺跡(2003~15年)などの調査を手がけた。バブル期以降、高速道路などの大型公共事業は減ってきているものの、大型ショッピングセンターや物流倉庫など、民間事業にともなう調査の割合が高まっているという。さらにセンターでは、発掘調査のほかに指定管理者として大阪府立・近つ飛鳥博物館(大阪府河南町)や大阪府立・弥生文化博物館(大阪府和泉市)などの博物館の運営、日本各地への技術支援や文化財の貸し出しなども行っている。
   と、説明が長くなってしまったが、つまりは私たちが展示会や講演会などで歴史に触れるとき、裏方として働いている団体なのだ。
   今回の船橋遺跡の調査もそんな大規模開発に伴う調査である。ここは2023年度、新名神高速道路(八幡京田辺~高槻)が開通する予定で、この現場はちょうどトンネルの出入口となる。2017年7月にスタートした調査はこの8月で終了することになっており、現場はまさに佳境といった雰囲気だ。
   重機で掘り返した調査区には、鎌倉時代末から室町時代ごろの地表が露出しており、かつての村や田畑の遺構が発見されている。土の色が他と違っているなど、何か出てきそうなところは白線で印をつけ、慎重に掘り進める――。そんな現場の説明を受けているうちにも、次々と遺物が見つけ出され、コンテナに運び込まれていく。
   こんなに簡単に、と言っては失礼だけれど、遺物は話しているそばからポコポコ出てくる。出土品は現場近くの詰所に運んで洗浄するのだが、詰所の表に積まれたコンテナを見ても、たいへんな量であることがわかる。珍しいもの・よくあるものの差はあれど、どれも今回初めて掘り出された“初物”の文化財。そんな貴重なものが次々と見つかるとは……。
   井上さんは嬉しそうに語る。
  「まだ発掘予定地の50%くらいしか調査していないのに、コンテナ200個以上は出ています。たくさん出る現場はおもしろいんですけど、ちょっと大変ですね。量が多いと運んだり洗ったりといった作業が増えるから、どうしてもスケジュールが厳しくなってしまうんです」
 
  ●何でも残る「低湿地遺跡」
 
   考えてみれば当たり前だが、すべての遺跡がここのように次から次へと発見があるわけではない。では、なぜこの現場は「たくさん出る」のか? その秘密は、現場のすぐ南側を流れる淀川の支流・船橋川にあるという。
  「いま調査している15~16世紀あたりの地層を観察すると、たびたび河川の氾濫した跡が見つかるんです。ところによっては1メートル以上も土砂が積もっていたりする。どうやらここは洪水が頻繁に起きていたようで、そのたびに田畑を復旧し、また洪水に見舞われて復旧し……ということを繰り返していたようなんです。水害対策と思われる杭なども見つかったし、土砂の中からは土器や漆器、鉄製品、動物の骨、下駄、箸など、当時のあらゆる生活道具が出てくる。つまり、ここでは川が運んだ大量の泥によって、当時の生活の痕跡がそのままパックされているんです」
   先人を苦しめてきたであろう水害が、現代から見れば当時のくらしを知る上で役立つとは、おもしろいものだ。
   このように水に浸かっている遺跡のことを、専門的には「低湿地遺跡」というらしい。井上さんはその特徴について生き生きと語る。
  「低湿地遺跡は“残りがいい”のが魅力です。今回の調査で出土した遺物の中には、泥に埋もれていたおかげで現存したものも多い。木製品や漆器に加えて、二上山から切り出されたと思われる凝灰岩でできた五輪塔(の一部)など、地表に残されたままだとおそらく風化していたでしょう。こんなふうに、水浸かり状態の方がよく残るから、当時の人々の生活が生々しくわかるんです」
   水浸しで発見された木製品や漆器は、容器の中で水につけたまま保存する。細かく割れてしまってはいるものの、何百年も前の漆器のお椀に描かれた柄までハッキリ見えるのには、思わず感嘆の声をあげてしまった。
   さらに、低湿地遺跡にはこのような“派手な出土品”以外の魅力もあるという。
  「今回のように水が流れ込む遺跡の場合、川によって砂が運ばれ、地形が変わり、そこに人が住み始めて……、といった自然と人間との関係も読み取ることができる。これも低湿地遺跡の楽しさのひとつですね」
   すでに調査の終わった隣の区画では、井戸の底から奈良時代の「ひょうたん」が発見されている。ひょうたんといえば多少の加工はされていても、ほぼ自然のもの。詰所で保管しているのを見せてもらうと、ふやけたような感じではあるものの、繊維のひとつひとつまで残っているのが見えた。普通の地層に埋まっていれば間違いなく土に帰っていただろう。
   恐るべし低湿地遺跡、である。
 
  ●「歴史的猛暑」との闘いがスタート
 
   遺物がたくさん出てくるのに加えて「水浸かり」のため有機物の保存状態もよし。だが、能天気に喜んでもいられない。発掘調査の目的は文化財の保護と同時に開発のためでもある。事業者のためにも調査のスケジュールは守らねばならない。
   井上さんは「ガリ」と呼ばれる発掘用具を握りしめながら言う。
  「もともと規模の大きい調査なんですが、川の氾濫跡が出てきて、予定より深く掘らなければいけなくなってしまいました。さらに先日の豪雨の後は、掘ったところから水が湧いてくるようになって、大変です」
   そこに追い打ちをかけるのが、この猛暑である。
   取材した段階では、まだ「梅雨明けと同時に真夏の暑さ」というトーンの報道だったが、数日のうちに「命の危険もある暑さ」「底知れぬ歴史的猛暑」などの表現に切り替わっていったのはご存知の通りだ。
  「こういう仕事なので私たちは暑さには強いんです。ただそれでも、今年のように梅雨明けからいきなり猛暑というのはきつい。春から初夏、真夏と体を慣らしていけたらよかったんですけど。しっかり熱中症対策をして暑さを乗り切るにしても、だんだん疲労がたまって進捗が悪くなってしまうのが心配ですね」
   樟葉の駅から現場まで案内してくれた同センターの亀井聡さんはこう語りつつ、「食べてみて、おいしいから」とフルーツ塩飴をスタッフに配っている。補給食ひとつであれ、少しでも口に入れたくなるものを選ぶことが熱中症予防になり、作業の進捗にもつながるのだ。
   同センターのユニフォームは、オーソドックスな綿100%素材の長袖・長ズボン。綿のウェアは着心地はいいものの、大量の汗をかくと体に張り付き、突っ張ってしまうのが問題という。
   発掘現場は地表から3メートル近い穴の底で、風も通らない。訪問するまでは、京都や奈良の史跡公園のような風光明媚なところかも、と想像したりしていたが、勘違いもいいところである。この暑さと湿気の前では歴史への興味や好奇心などどこかへ吹っ飛んでしまう。
   暑さについて井上さんにも聞いてみる。
  「うーん、どちらかというと暑さより寒さの方がきついですね。私がテーマにしている低湿地遺跡では地表が濡れていることが多いんです。発掘作業でも細かい所になると手袋を外して、指でじかに触れて確認するんですが、これが冬だと凍ってたりして手がかじかんでくる。あれは辛いですね」
   この暑さにもかかわらず、厳冬期の低湿地遺跡のきつさをしみじみ語る井上さん。やはり経験を積んだ考古学者の回答は一般人の想像をはるかに超えるものだった……。
 
  ●合言葉は「真実はいつもひとつ!」
 
   この現場では、7月末に地元向けの現地公開を控えている。開発のための調査をするだけでなく、地域住民や歴史ファンに遺跡や文化財についての調査成果を伝えるのもセンターの大切な仕事である。
   発見が報道で取り上げられたりすると、アクセスの悪い場所でも信じられないほど人がつめかけるのが現地説明会。この現場の場合、そこまで大がかりなイベントではないものの、現場を通りがかった人からは「何か見つかった?」と声をかけられることもあるというから、関心の高さがうかがえる。
  「歴女」をはじめ、応仁の乱の解説書がベストセラーになったり、刀剣を題材にしたスマホゲームが流行ったり、と日本史ブームが続く現代。一方で考古学の盛り上がりはどうなのだろうか。亀井さんは次のように語る。
  「現地説明会や講演会といったイベントはものすごく人気がありますね。2017年1月に開いた郡遺跡・倍賀遺跡(大阪府茨木市)の現地説明会の来場者は1000人を超えました。人気の背景としては、高齢者を中心に“ルーツ探し”というか、自分の生まれ育った地域のことを知りたいというニーズの高まりがあるようです。また、うちでは現地説明会だけでなく学校向けの体験学習も行っています。授業で日本史を学んでいる高学年くらいになると、意外と考古学に興味を持ってくれますよ」
   考古学といえば「邪馬台国論争」など、白熱のテーマがたくさんあることでも知られている。素人目にはややこしい話のようにも感じるが、亀井さんによると、こんなふうに議論が分かれる点も考古学の魅力のひとつという。
  「考古学はね、自由だからいいんですよ。専門家からアマチュアまで、いろんな人がいろんなことを言ってて、そこがまたおもしろい。こんなにもさまざまな説が飛び出してくる自由な学問があるでしょうか。本当にユニークな世界だと思います。しかし、おもしろがっていても真実に迫ることは忘れてはいけません。たとえば邪馬台国でも二カ所にあったわけじゃないでしょう。つまり、どこかのマンガじゃないですけど『真実はいつもひとつ!』なんです」
   このように論争から謎解きまで、さまざまな楽しみ方ができる考古学の世界。ところが一方で、文化財の調査や活用といったセンターの活動の前には、現実的な課題も横たわっているという。
  「最近は発掘調査が減ったなぁ……、とは思いますね。やはり過去に比べれば大規模な開発は少なくなってきていますから。しかし、それでも公益財団法人として事業は継続していかないといけない。環境が厳しいからといって事業を縮小すれば、技術もノウハウも失われ、何もできなくなってしまう。遺跡や文化財は、今を生きる私たちだけでなく未来の人々のためにも残さねばならないもの。現代の経済活動のためだけの犠牲にはしたくない」(亀井さん)
   文化財や遺跡というと「歴史学の研究者や一部のマニアのためのもの」「普通の人には無縁の世界」といったイメージがあるけれど、実はそうではない。それらは実は「自分たちはどこから来たのか」という誰もが抱く問いを考えるための手がかりなのだ。
   さらに、どんな遠い将来の人々も人間である限り、同様の「問い」を持つに違いない。しかし、ひとたび開発が終わってしまえば、破壊された遺跡は二度と戻らない。ならば、せめて失われる遺跡を調査して詳細な記録を残そう、と。
   これが後世に対する私たちの責任なのだ。
 
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水害対策と思われる杭が残る
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漆器の柄もまでくっきり見える