クーデター直後は、新聞やテレビで毎日のようにミャンマーの報道があったけれど、今やめっきり少なくなってしまった。とくに国軍に拘束された日本人ジャーナリストが解放されてからは、「一件落着」といった雰囲気すら漂っている。そんな中、頻繁に「ミャンマー」の見出しが踊っているのは新聞の地域面だ。在日ミャンマー人が多い東京や、留学生がたくさん来ている京都、そして1980年台から民主化勢力をサポートしてきた主要都市の支援団体が、ミャンマー市民のために立ち上がっている。街頭での支援の呼びかけや抗議デモなど、国軍に立ち向かうたくさんの草の根運動が、ここ日本で起きているのだ。しかし、報道によればコロナ禍での街頭活動に否定的な日本人は多いようで「自分の国でやれよ」と心ない言葉をかけられることもあるという。やるせない気分になる。危機に瀕した人を助けるのに日本も海外もあるだろうか? とはいうものの本誌「月刊まいど屋」も、ミャンマーの人々に具体的な支援をしているわけではない。それ以前に、日本のどこにミャンマー人がいるのか、国内でどんな団体が活動しているのかもわからない。街頭活動や抗議デモも、ニュースで見聞きするだけで実際に見たことはない。これではダメなのではないか。ミャンマー支援の第一歩は、まず国内での民主化活動を知ることなのでは? こう考えた編集部は多くの支援団体がある東京に向かった。
特集2
日本ミャンマー友好協会の栗原さん
Support CRPH-Japanの熊澤さん
●「軍事独裁に戻るなんてありえない」
話を聞かせてくれたのは、一般社団法人「日本ミャンマー友好協会」の専務理事、栗原健一さん。品川区の本部は建築士としてのオフィスを兼ねていて、道路に面したガラス戸までミャンマーの写真で埋め尽くされている。まずは栗原さんとミャンマーとの関わりから聞かせもらおう。
「父がビルマに従軍していたんです。そのとき現地の人たちの優しさに感動したらしく、戦後も戦友会のほか当協会の前身『日本ビルマ文化協会』の活動に関わっていた。ただ、私は当時ミャンマーには関心がなかったんです。ところが1976年、父が計画していたミャンマー旅行の4カ月前に亡くなったので、遺骨を持って初めてミャンマーに行った。そのとき、仏教遺跡で有名なパガンのパゴタ(仏塔)に惚れ込んでしまいまして、協会に参加することになりました」
日本ビルマ文化協会は1970年、大阪万博時にワコール創業者の塚本幸一氏が設立。つまり現在の日本ミャンマー友好協会は、50年以上も前から続く老舗団体というわけだ。会の目的はその名の通り、あらゆる分野でミャンマー人と日本人との交流をすすめ友好関係を深めること。日本でミャンマーの子供たちの絵を展示したり、ミャンマーのダンスを披露したりといった文化の発信に加えて、現地で井戸を掘るといった市民生活の援助も重ねてきた。しかし、1988年のクーデターで軍事独裁政権ができてからは、民主化勢力の支援が活動の主軸になったという。
「当時、日本各地にあるミャンマー関係団体の中には、しかたないからと軍事独裁を認める声もあったんです。しかし、当協会の関東支部は『それは絶対に間違っている』という意見を貫いてきた。あのときは軍事政権に弾圧された学生や僧侶が逃げ惑っていたので、私たちはジャーナリストの橋田信介さんと一緒に助けに行きました。タイで買った医薬品をミャンマーとの国境付近で受け渡す直接支援です」
1988年の国軍クーデターでは、日本政府は軍事政権の発足からわずか5カ月後にこの政権を「正当な政府」と承認している。このような政府のスタンスのもと交流を進めてきた背景もあって、日本のミャンマー関係団体の中には今でも国軍に好意的な人が多いという。栗原さんは、「そういう団体と一緒にされたくない」と言って語気を強める。
「今回のクーデターについて、当協会は会長から理事まで全員が国軍批判です。会員の中には、現地で会社を経営している人もいます。国軍を批判すれば間違いなく仕事はやりにくくなる。しかし、それでも『市民の側に立つ』と言ってくれています。みんな、ここまできたらもう徹底的にやるぞ! といった気分ですよ。というのも、2011年の民政移管からずっとものすごくいい流れだったんです。経済発展して国民生活は豊かになっているし、国軍系企業だって儲かっている。民主化したことでマイナスがあるならわかるけれど、こんな理想的な状況から軍事独裁に戻るなんてありえない」
こう熱く語った後、栗原さんはパガンで撮った写真アルバムを見せてくれた。少しでもミャンマーに興味を持ってほしい、とウェブ上でも公開中。「パゴタの写真は1976年から撮り続けています。僕のライフワークですね」と目を輝かせて語る。たしかに心がほっとするような光景だ。ただ、写真に映る素朴な格好の女性や子供たちが、今どんな困難に直面しているかを想像すると、やりきれない。
●日本政府は「まともな外交」を
続いて会いに行ったのは、民主化勢力を支援する在日ミャンマー人団体「Support CRPH-Japan(CRPH支援協会・日本)」の事務局を務めている熊澤新さん。「CRPH」とは、2021年2月の軍事クーデター以降の軍政に対抗して設立された連邦議会代表委員会のこと。要するに、クーデターのせいで国会に行けなくなった「議員さん」である。当初はミャンマー人が数多く暮らす高田馬場で話を聞く予定だったが、「取材のあとでミャンマー大使館前(品川区)での国軍への抗議デモに参加する」とのことで、品川駅前で待ち合わせることになった。
そもそも、なぜ熊澤さんはミャンマーの民主化活動に関わるようになったのだろう。「東南アジアを旅行して好きになった」とか「テレビでアウンサンスーチー氏の講演を聞いた」とか勝手に想像していたのだが、ぜんぜん違った。
「私はもともとアムネスティ(投獄された政治犯の釈放、死刑・拷問の廃止、亡命者の保護などを目的とする国際組織)のボランティアをしていまして、そこでミャンマー人の難民に出会ったのがきっかけです。それが1999年のこと。当時はミャンマーについてほとんど知らなかったのですが、彼らが1990年代の初めから日本で民主化のための活動を続けていると聞いて驚きました。じつはミャンマー人というのは、日本国内で継続的に政治活動をしている唯一の外国人なんですよ」
確かに、すでに日本には中国や韓国に加えて、ベトナム・フィリピン・ブラジル・ネパール・インドネシア……と、数え切れないほどの外国人が暮らしている。しかし、彼らが一丸となって自国の政府に抗議しているのは見たことがない。しかもミャンマー人はコロナ禍の今、現在進行形で街頭での呼びかけや抗議デモを行っているのだ。
そして、そのような20年以上におよぶ活動の中心を担ってきたのが「88世代」だという。1988年、ミャンマーでは大学生が旗振り役となって大規模な反政府デモが起き、全土を巻き込んだ民主化活動は最高潮に達した。この運動は当時の社会主義政権(トップは国軍出身)を退陣に追い込んだものの、この直後に起きた国軍クーデターで発足した軍事独裁政権によって鎮圧され、全国で1000人以上が死傷したと推計されている。
「この1988年の民主化運動を支え、独裁政権の弾圧を逃れて日本にやってきたのが『88世代』のミャンマー人です。彼らが軍事政府を非難し、民主化を訴えてきた成果もあって、国軍は2011年に民政移管した。そして2016年には総選挙でアウンサンスーチーさん率いるNLDが大勝した。88世代としては非常に好ましい状態が続いていたんですね。ただ、2020年の選挙で再び勝利したNLDは『憲法を変える』と明言したことで『国軍は何かアクションを起こすのでは?』という見方はあった。クーデター直前の1月には、ヤンゴンで国軍が脅しのような活動をしていて『何かありそうだ』と言っているミャンマー人もいました。その懸念が的中してしまったわけです」
残念ながら、いま現実にミャンマーを統治しているのは軍事政権である。しかし、「それでも日本政府はNUG(国民統一政府)を正式な政府として認めるべきだ」と熊澤さんは強調する。
「日本人としては『不当な軍事政権ができようが、日本に直接的な利害はない』という言い方もできますよね。でも、国軍にミャンマー人の支持はないわけで、その状況が続けば必ずミャンマーの社会や経済に悪影響が出る。すると日系企業のビジネスにも跳ね返ってくるし、日本とミャンマーの経済関係にも悪影響が出てしまう。こんなのが、まともな外交関係と言えますか? ミャンマーは国土は広いし資源もある、クーデター前の状況に戻ればどんどん発展していくでしょう。こちらの路線を支持していくのが、まともな考え方だと思います」
●在日ミャンマー人たちの志
デモが始まる時間になったので、熊澤さんとともに品川のミャンマー大使館に向かう。現場には、多く見積もって200人くらいの在日ミャンマー人が集結していた。誰もが軍を批判するプラカードやクーデター後の混乱による死者を悼む写真を掲げている。「今日のデモはミャンマー人留学生が中心」とのことで、一見すると若者が多い。だが、よくみると4人に1人くらいは40、50代くらいの中高年も混ざっている。ミャンマー大使館は2月のクーデターをもって図らずも「国軍の出先」となってしまったわけで、ちょっと気の毒な気もする。
見た目こそ激しいが、デモは非難のシュプレヒコールをあげるだけの平和的なもの。正面からデモ隊の写真を撮るために、大使館の前に立つと秒で警察官がやってきた。「何してるの? どこの社? 何が目的?」と露骨にプレッシャーをかけて追い払おうとする。ふだん「普通の日本人」をしていると気が付かなかった。ケーサツがこんなに感じ悪いとは……。
グイグイくる警察に手を焼いていると、「こっちこっち」とミャンマー人のおっさんがデモ集団の中に入れてくれた。どこからともなくプラカードと抗議メッセージの書かれたカードがやってきて、あっという間にデモ隊の一員となる。
「(ミャンマー語のカードを指して)読める?」
「ぜんぜん読めないっす!」
「そうなの、あはは!」
続いておっさんは「僕いくつに見える?」と聞いてきた。「大学生じゃないですよね?」というと、周りの人が「50代だよ!」と囃し立てる。ただのひょうきんな中年に見えて、じつはこの人は前述した「88世代」。90年代から日本で民主化運動をつづけているベテラン活動家なのだ。さっき、熊澤さんから「2月のクーデター以降、かつてバリバリ活動していた88世代が抗議デモに参加し、若い世代を勇気づけている」と聞いてはいたが、いきなり会えるとは。
しばらくすると、学生代表によるシュプレヒコールが始まった。英語の部分だけ一緒に声を上げる。「殺した人々を返せ!」「拘束者を解放しろ!」「市民に自由を!」こういう内容だった。拡声器の声は韻を踏んでいて、ハードロックのような心地よさがある。いつの間にか自然と拳を突き上げて「FREE! FREE!」と叫んでいた。
デモは2時間以上経っても終わらない。大使館前の道路を通る日本人は99%は「見て見ぬふり」だが、通りかかった90歳は超えていそうなおじいちゃんは、ニコニコとこっちを見るとデモ隊に駆け寄り、握手までして去っていった。まさかビルマ戦線の元兵士……、と余計な憶測をしてしまったが、ありえない話ではない。
「今日なんでデモしたかわかる? 7月7日は僕たちにとって特別な日なの」
と、さっきのおっさんが言う。「わかりません」と答えると、「待ってました」という顔で熱心な講義が始まったが、シュプレヒコールで何も聞こえない。結局、時間の都合で最後までデモを見届けることはできず、別れを告げて立ち去った。
その夜、ホテルの部屋でビルマの歴史についてのパラパラめくっていたら「7月7日」の文字をみつけた。てっきり1888年の国軍クーデターに潰された民主化運動の話だと思っていたら、なんと1962年の7月7日。この日は、軍がラングーン大学に乗り込み、同年3月の国軍クーデターへの抗議を続ける大学生たちを射殺した日だった。今回デモを行なったミャンマーの若者は、自らを60年前の大学生に重ね合わせていたのだ。
半世紀以上も軍政と戦い続けるミャンマーの民主化勢力--。受け継がれる活動家の志に、改めて敬意を表したい。
話を聞かせてくれたのは、一般社団法人「日本ミャンマー友好協会」の専務理事、栗原健一さん。品川区の本部は建築士としてのオフィスを兼ねていて、道路に面したガラス戸までミャンマーの写真で埋め尽くされている。まずは栗原さんとミャンマーとの関わりから聞かせもらおう。
「父がビルマに従軍していたんです。そのとき現地の人たちの優しさに感動したらしく、戦後も戦友会のほか当協会の前身『日本ビルマ文化協会』の活動に関わっていた。ただ、私は当時ミャンマーには関心がなかったんです。ところが1976年、父が計画していたミャンマー旅行の4カ月前に亡くなったので、遺骨を持って初めてミャンマーに行った。そのとき、仏教遺跡で有名なパガンのパゴタ(仏塔)に惚れ込んでしまいまして、協会に参加することになりました」
日本ビルマ文化協会は1970年、大阪万博時にワコール創業者の塚本幸一氏が設立。つまり現在の日本ミャンマー友好協会は、50年以上も前から続く老舗団体というわけだ。会の目的はその名の通り、あらゆる分野でミャンマー人と日本人との交流をすすめ友好関係を深めること。日本でミャンマーの子供たちの絵を展示したり、ミャンマーのダンスを披露したりといった文化の発信に加えて、現地で井戸を掘るといった市民生活の援助も重ねてきた。しかし、1988年のクーデターで軍事独裁政権ができてからは、民主化勢力の支援が活動の主軸になったという。
「当時、日本各地にあるミャンマー関係団体の中には、しかたないからと軍事独裁を認める声もあったんです。しかし、当協会の関東支部は『それは絶対に間違っている』という意見を貫いてきた。あのときは軍事政権に弾圧された学生や僧侶が逃げ惑っていたので、私たちはジャーナリストの橋田信介さんと一緒に助けに行きました。タイで買った医薬品をミャンマーとの国境付近で受け渡す直接支援です」
1988年の国軍クーデターでは、日本政府は軍事政権の発足からわずか5カ月後にこの政権を「正当な政府」と承認している。このような政府のスタンスのもと交流を進めてきた背景もあって、日本のミャンマー関係団体の中には今でも国軍に好意的な人が多いという。栗原さんは、「そういう団体と一緒にされたくない」と言って語気を強める。
「今回のクーデターについて、当協会は会長から理事まで全員が国軍批判です。会員の中には、現地で会社を経営している人もいます。国軍を批判すれば間違いなく仕事はやりにくくなる。しかし、それでも『市民の側に立つ』と言ってくれています。みんな、ここまできたらもう徹底的にやるぞ! といった気分ですよ。というのも、2011年の民政移管からずっとものすごくいい流れだったんです。経済発展して国民生活は豊かになっているし、国軍系企業だって儲かっている。民主化したことでマイナスがあるならわかるけれど、こんな理想的な状況から軍事独裁に戻るなんてありえない」
こう熱く語った後、栗原さんはパガンで撮った写真アルバムを見せてくれた。少しでもミャンマーに興味を持ってほしい、とウェブ上でも公開中。「パゴタの写真は1976年から撮り続けています。僕のライフワークですね」と目を輝かせて語る。たしかに心がほっとするような光景だ。ただ、写真に映る素朴な格好の女性や子供たちが、今どんな困難に直面しているかを想像すると、やりきれない。
●日本政府は「まともな外交」を
続いて会いに行ったのは、民主化勢力を支援する在日ミャンマー人団体「Support CRPH-Japan(CRPH支援協会・日本)」の事務局を務めている熊澤新さん。「CRPH」とは、2021年2月の軍事クーデター以降の軍政に対抗して設立された連邦議会代表委員会のこと。要するに、クーデターのせいで国会に行けなくなった「議員さん」である。当初はミャンマー人が数多く暮らす高田馬場で話を聞く予定だったが、「取材のあとでミャンマー大使館前(品川区)での国軍への抗議デモに参加する」とのことで、品川駅前で待ち合わせることになった。
そもそも、なぜ熊澤さんはミャンマーの民主化活動に関わるようになったのだろう。「東南アジアを旅行して好きになった」とか「テレビでアウンサンスーチー氏の講演を聞いた」とか勝手に想像していたのだが、ぜんぜん違った。
「私はもともとアムネスティ(投獄された政治犯の釈放、死刑・拷問の廃止、亡命者の保護などを目的とする国際組織)のボランティアをしていまして、そこでミャンマー人の難民に出会ったのがきっかけです。それが1999年のこと。当時はミャンマーについてほとんど知らなかったのですが、彼らが1990年代の初めから日本で民主化のための活動を続けていると聞いて驚きました。じつはミャンマー人というのは、日本国内で継続的に政治活動をしている唯一の外国人なんですよ」
確かに、すでに日本には中国や韓国に加えて、ベトナム・フィリピン・ブラジル・ネパール・インドネシア……と、数え切れないほどの外国人が暮らしている。しかし、彼らが一丸となって自国の政府に抗議しているのは見たことがない。しかもミャンマー人はコロナ禍の今、現在進行形で街頭での呼びかけや抗議デモを行っているのだ。
そして、そのような20年以上におよぶ活動の中心を担ってきたのが「88世代」だという。1988年、ミャンマーでは大学生が旗振り役となって大規模な反政府デモが起き、全土を巻き込んだ民主化活動は最高潮に達した。この運動は当時の社会主義政権(トップは国軍出身)を退陣に追い込んだものの、この直後に起きた国軍クーデターで発足した軍事独裁政権によって鎮圧され、全国で1000人以上が死傷したと推計されている。
「この1988年の民主化運動を支え、独裁政権の弾圧を逃れて日本にやってきたのが『88世代』のミャンマー人です。彼らが軍事政府を非難し、民主化を訴えてきた成果もあって、国軍は2011年に民政移管した。そして2016年には総選挙でアウンサンスーチーさん率いるNLDが大勝した。88世代としては非常に好ましい状態が続いていたんですね。ただ、2020年の選挙で再び勝利したNLDは『憲法を変える』と明言したことで『国軍は何かアクションを起こすのでは?』という見方はあった。クーデター直前の1月には、ヤンゴンで国軍が脅しのような活動をしていて『何かありそうだ』と言っているミャンマー人もいました。その懸念が的中してしまったわけです」
残念ながら、いま現実にミャンマーを統治しているのは軍事政権である。しかし、「それでも日本政府はNUG(国民統一政府)を正式な政府として認めるべきだ」と熊澤さんは強調する。
「日本人としては『不当な軍事政権ができようが、日本に直接的な利害はない』という言い方もできますよね。でも、国軍にミャンマー人の支持はないわけで、その状況が続けば必ずミャンマーの社会や経済に悪影響が出る。すると日系企業のビジネスにも跳ね返ってくるし、日本とミャンマーの経済関係にも悪影響が出てしまう。こんなのが、まともな外交関係と言えますか? ミャンマーは国土は広いし資源もある、クーデター前の状況に戻ればどんどん発展していくでしょう。こちらの路線を支持していくのが、まともな考え方だと思います」
●在日ミャンマー人たちの志
デモが始まる時間になったので、熊澤さんとともに品川のミャンマー大使館に向かう。現場には、多く見積もって200人くらいの在日ミャンマー人が集結していた。誰もが軍を批判するプラカードやクーデター後の混乱による死者を悼む写真を掲げている。「今日のデモはミャンマー人留学生が中心」とのことで、一見すると若者が多い。だが、よくみると4人に1人くらいは40、50代くらいの中高年も混ざっている。ミャンマー大使館は2月のクーデターをもって図らずも「国軍の出先」となってしまったわけで、ちょっと気の毒な気もする。
見た目こそ激しいが、デモは非難のシュプレヒコールをあげるだけの平和的なもの。正面からデモ隊の写真を撮るために、大使館の前に立つと秒で警察官がやってきた。「何してるの? どこの社? 何が目的?」と露骨にプレッシャーをかけて追い払おうとする。ふだん「普通の日本人」をしていると気が付かなかった。ケーサツがこんなに感じ悪いとは……。
グイグイくる警察に手を焼いていると、「こっちこっち」とミャンマー人のおっさんがデモ集団の中に入れてくれた。どこからともなくプラカードと抗議メッセージの書かれたカードがやってきて、あっという間にデモ隊の一員となる。
「(ミャンマー語のカードを指して)読める?」
「ぜんぜん読めないっす!」
「そうなの、あはは!」
続いておっさんは「僕いくつに見える?」と聞いてきた。「大学生じゃないですよね?」というと、周りの人が「50代だよ!」と囃し立てる。ただのひょうきんな中年に見えて、じつはこの人は前述した「88世代」。90年代から日本で民主化運動をつづけているベテラン活動家なのだ。さっき、熊澤さんから「2月のクーデター以降、かつてバリバリ活動していた88世代が抗議デモに参加し、若い世代を勇気づけている」と聞いてはいたが、いきなり会えるとは。
しばらくすると、学生代表によるシュプレヒコールが始まった。英語の部分だけ一緒に声を上げる。「殺した人々を返せ!」「拘束者を解放しろ!」「市民に自由を!」こういう内容だった。拡声器の声は韻を踏んでいて、ハードロックのような心地よさがある。いつの間にか自然と拳を突き上げて「FREE! FREE!」と叫んでいた。
デモは2時間以上経っても終わらない。大使館前の道路を通る日本人は99%は「見て見ぬふり」だが、通りかかった90歳は超えていそうなおじいちゃんは、ニコニコとこっちを見るとデモ隊に駆け寄り、握手までして去っていった。まさかビルマ戦線の元兵士……、と余計な憶測をしてしまったが、ありえない話ではない。
「今日なんでデモしたかわかる? 7月7日は僕たちにとって特別な日なの」
と、さっきのおっさんが言う。「わかりません」と答えると、「待ってました」という顔で熱心な講義が始まったが、シュプレヒコールで何も聞こえない。結局、時間の都合で最後までデモを見届けることはできず、別れを告げて立ち去った。
その夜、ホテルの部屋でビルマの歴史についてのパラパラめくっていたら「7月7日」の文字をみつけた。てっきり1888年の国軍クーデターに潰された民主化運動の話だと思っていたら、なんと1962年の7月7日。この日は、軍がラングーン大学に乗り込み、同年3月の国軍クーデターへの抗議を続ける大学生たちを射殺した日だった。今回デモを行なったミャンマーの若者は、自らを60年前の大学生に重ね合わせていたのだ。
半世紀以上も軍政と戦い続けるミャンマーの民主化勢力--。受け継がれる活動家の志に、改めて敬意を表したい。
3本指で抗議するデモ隊
|
編集長もプラカードを持って参加
|