【クロダルマ】笑ゥ営業まんimage_maidoya3
2016年12月31日、僕は2度目の大晦日を迎えた。あの日と同じように朝から寒さが厳しく、僕の安アパートの階段下にいつもできる水たまりには、薄く氷が張っていた。ここしばらく雨は降っておらず、空気は乾燥していたのだが、水たまりはやっぱりいつものようにそこにあって、僕はそれをまたいで外に出ることを強いられるのだった。あの水は、一体どこから来るのだろう?そんなことをぼんやりと考えながら、僕はコートの襟を立て、駅への道を急いだ。道行く人たちは皆、いつもとは違った晴れやかな、そして幾分緩んだ表情でゆっくりと過ごしているように見えた。師走と呼べるのはいつも30日までで、大晦日になると街にはもう、半分正月の空気が混じりあっている。人々はまるで渡り鳥が船のマストにとまって羽を休めるように長い道のりを歩いてきた足を止め、その距離を確認するように何度も後ろを振り返っては、多分に感傷の混じった眼差しで安堵の溜息を漏らし、そして何年か前に流行った「自分を褒めてやりたい」という言葉を思い出しながら誇らしげな気分に浸ろうと努めるのだった。僕は、もう長い間僕には無縁の、そんな安らかな高揚感に満ちた通りを、背を丸めてひとり黙々と歩いて行った。ときどき強い風が吹き、葉を落として裸になった街路樹のカツラが、ひゅうひゅうと音を立てて枝を上下に揺らしていた。
  結局、その日も僕は一日誰と話すこともなく、最後まで一人きりで過ごすことになりそうだった。お昼前に誰もいないオフィスにやって来てパソコンの前に座り、やっとの思いで月刊まいど屋の原稿を書き終えたときには、時計の針はもう夜の10時を回っていた。明日の元旦の朝、再び会社に戻って書き上げたばかりの原稿をアップすれば、そのとき僕の2016年はようやく終わる。だがそうしてまた一年の区切りをつけたとしても、僕は自分を褒めてやりたいという気にはとてもなれないのがわかっていた。僕はただ、はるか昔のあの日に決められたレールの上を歩かされている囚人のような存在にすぎなかった。看守の指示に従って定められたとおりに体を動かし、要求されたものを次々と作り続けることで何とか自分の居場所を確保しているだけだった。常に監督されていることを意識して気が休まる暇がなく、神経をすり減らすことが最早、僕の日常と言えるようになっていた。僕はまいど屋という化け物じみた怪物の、心臓部に埋め込まれたピストンリングなのだった。いや、もしかしたら、僕はこの醜悪な姿をしたまいど屋そのものなのかもしれない。僕の皮膚も、血液も、そして誰も侵すことができないはずの僕の意思さえもがまいど屋という監獄に姿を変え、そして同時に自らそこに繋がれることで何とか存在を許されているだけなのではないか。そうではない、僕は僕としてちゃんとここにいるんだと反論するだけの自意識は、もうとうの昔にどこかに失くしてしまっていた。
  紅白はとっくに始まっている時間だったが、特に見たいとも思わなかった。僕は会社のドアに鍵をかけ、底冷えのする通りへと出た。手袋を持ってこなかったので、指先がひどく冷たかった。そのまま駅へと向かいかけて、僕は足を止めた。アパートの部屋に戻っても特にやることがないことが、この日はなぜかいつも以上にリアルな現実として僕を冷笑しているように思えてきたのだ。薄暗くアスファルトを照らす街灯の下で立ち止まったまま、僕は見知らぬ街で迷子になってしまったときのように何度も周囲を見回した。通りを吹き抜ける北風に背中をいよいよ丸めながら、そういえば、階段下の水たまりは今頃どうなっているのだろうなどとどうでもいいことを考えた。今なら、きっとまたがずに踏んでも大丈夫なほど氷の厚みが増しているかもしれない。気が付くと僕は再び歩き出していた。あの日と同じように、僕はそうすることを自分で決めたという感覚が全くないまま、何か大きな力に呼び寄せられるようにして足を速めた。駅前の灯りを左手に見ながら大通りを横切り、線路をくぐる薄暗いトンネルを抜けると、そこはうらぶれた雰囲気の町工場が並ぶ工場街だった。はるか昔に見捨てられてしまったようなその町並みは、なぜか僕に核実験用に作られたネバダのダミータウンを思い起こさせた。突き当りのT字路の右手に見覚えのある古ぼけた5階建ての建物があった。幅は8間ほどで正面からは普通の建物に見えるが、奥行きはその三分の一程度しかなく、横から眺めるとまるで屏風を立てたように頼りないビルだ。人通りの全くない道路に面した1階には、建物の横幅には不釣り合いなほど小さな木製のドアが一つだけついていた。扉の上の方には鉄製のプレートがはめ込まれ、そこに小さく「BAR」という文字が彫られている。僕は扉を押して中に入った。そこはあの日以来、意識的に出向くのを避けていた場所だった。
 

クロダルマ
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薄暗く照明が落とされた狭い店内のカウンター席に、男は一人で座っていた。前回会った時と同じように真っ黒のシルクハットをかぶり、よれたブラックスーツの上下に黒のネクタイという出で立ちだった。100キロは越えていそうな丸々とした身体からは、何か得体の知れないエネルギーが溢れ出ていた。身じろぎもせずに大きな丸い目で前方を睨みつけている姿は、まるで黒い雪ダルマのようにも見える。男の膝の上には、どこかで見かけたことがある気がする年老いた黒猫がうずくまっていた。男の左手は禿げて毛がなくなってしまった猫ののどの下を撫で続け、猫は気持ちよさそうにしながらときどきゴロゴロと鳴き声を上げた。
  他に客はいなかった。それどころか、カウンターの中にバーテンさえいなかった。男の前には半分ほど減った山崎のボトルと、丸く削られたこぶし大の氷が入った背の低いグラスが置かれていた。グラスは細かな水滴にびっしりと覆われていたが、氷がグラスの淵の高さまであるところを見ると、飲み始めてまだそんなに時間は経っていないようだ。
  「僕はまいど屋を始めた」と男に向かって僕は言った。「それからあなたと約束した通りに、僕は月刊まいど屋を書いてきた。一か月に一度、テーマを絞って記事を上げ続けた。9年間、店の運営をしながら、一度も休んだことがない。僕はあの時、なぜそうするのかを聞かなかった。あなたが質問はするなと言ったからだ。今日、ちょうどあの日を迎えて僕はここに来た。あれから9年経ったんだ。僕は明日から自分の時間を生きてもいいんだろうか?あなたは何を望んでいるのだろう?」
  「毎月読んでいましたよ」。そう言ってから男は口を大きく横に広げ、真っ白な歯を見せてホーッホッホッと甲高い笑い声を立てた。「いい出来だとは言えませんが、素人にしてはまあ頑張ったようですね。ちゃんと約束を守ってくれて、嬉しく思っているんですよ」。言い終わると、男はまた笑い声をあげた。何か言うたびに、この男はそんな風に笑うのだ。そして、一オクターブ上がった、何かに手拍子するようなその笑い声を聞くたびに、僕は自分の意思を見失い、男が用意した監獄に繋がれてしまった気持ちになるのだった。
  「あなたは一体、何者なんです?」ほとんど叫びだすように、僕は9年前と同じ質問をした。脇の下にいやな汗がにじんでいるのが自分でもわかった。
  「あたしですか?クロダルマの営業マンですよ。前にも言ったじゃないですか」
  「じゃ、何でまいど屋に来ないんです?営業マンなら営業しに来るでしょう?」
  営業だと名乗ったその男は、ぎょろりとした大きな目玉を上目使いでこちらに向け、また笑った。「何度も営業に行けばいいってもんじゃありません。そんなのは、能無しがやることです。仕事ができない人間は、時間と体力を使って相手の元に通っただけで仕事をした気になるもんなんです。でも、そうやって相手にも時間を取らせて話をしたって、意味のある会話なんかほとんどありゃしませんよ。運がよくてもせいぜい、あれを10箱くれとか、その程度の注文を取るのが関の山だ。だけど本当は、そんな注文は営業に行かなくたって相手はしてくるもんなんです。いいことを教えてあげましょうか?販売店っていうのはね、必要になればいくら営業とソリが合わなくっても、注文してくるんですよ。それでメシ食ってるんだから、この野郎と思っても、お世話になりますなんて言いながら、注文するんです。いいですか、私は優秀な営業マンなんですよ。優秀な営業マンは、一度しか営業しません。そこですべてを決めて相手をがんじがらめにしてしまうんです。もちろん、相手は自分がそうなってしまったことに気が付きませんがね。そこが腕なんですよ。ありがとうと感謝して、自分が入る監獄を自分で作り始めるってわけです。ヤミ金の契約書みたいなもんで、よほど注意していなけりゃ、自分がこれからどうなるかなんて、素人じゃまずわかりません。あたしは夢を見させてやるんです。そして握手をして別れる。これが本当の営業ってもんですよ。私とあなたは、あのとき大きな取引をしましたね。今もそれがまだ生きているんです。だから、わざわざそっちに出向く必要がないんですよ」。
  「僕もその手に乗せられたってわけなんだね」
  男は僕の質問には答えず、ただ何もかもを見透かしてしまうような視線をこちらに向けた。そして、もし僕が今日限りでまいど屋をやめたら、という苛立ちの混じった僕の問いかけに対し、それも9年前にお話ししたはずですよと言ってそれきり話すのをやめ、今度は静かに山崎のオンザロックを飲み始めた。猫は相変わらず目を閉じたままだった。
 
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  僕がまいど屋をやめたがっているという話を聞いて、読者の皆さんは多分驚かれたかと思う。そして恐らくそれは正月号向けに書いた他愛のないブラックジョークだろうと考え、まともには取り合わずにいる人も多いのではないかと推察する。大体、2016年12月31日を二度過ごしたという僕の冒頭の告白からして、普通であれば何か余興めいた怪談話のように聞こえるのだから、そう思われても僕としては皆さんを責める気持ちにはなれないのだ。だが、僕はそれでも僕の話を無条件に信じてくれるひとが、果てしなく広がったこのインターネットの繋がり先のどこかにたったひとりでもいるかもしれないと期待しながら、あえて一言ここで付け加えておこうと思う。これはまいど屋出生の秘密に関わる、正真正銘の実話である。僕があの笑う営業マンに会ったのは9年ぶりだったのだが、それは同時に、2016年12月31日のまさにその同じ日だったのだ。一度目のその日は、僕は作業着を着て工場勤務をしている工員だった。納期が危なくなっていた仕事があって、僕は大晦日の最後の最後まで働かされた。そしてようやく仕事が片付き、クタクタになった身体で僕の安アパートへ重い足を引きずっていたとき、僕の記憶は飛んだのだ。意識が戻ったとき、僕はあの屏風のような形をしたビルの向かい側に立っていた。冷たい風が強く吹き、何年も前に打ち捨てられたようなコンビニのビニール袋が電柱の下で舞っていた。痩せこけて体の一部が禿げかけた老猫が思いがけないすばしこさで入口にロープの張られた工場から飛び出してきて、屏風のビルの後ろへと走り去った。僕はその猫を追いかけるようにふらふらとビルに近づき、あの小さなドアにある「BAR」のプレートに気が付いた。今にして思えば、こんな人気のない場所で、看板も掛けずに営業しているバーがあること自体が不思議なのだが、そのとき、僕は何のためらいもなく、何かに促されるようにその木製の扉を押したのだった。中にはバーテンはおらず、あの男がひとり静かに山崎を飲んでいた。店員さんはどこですかと僕は男に訊いた。店員はいませんと男は答えた。そして続けて、何がお望みですかと男が言ったので、僕はてっきりその男が店主なのだろうと思い、「メニューはありますか」と尋ねた。
  「メニューはありません」と男は言った。
  思いがけない返事に僕はぎょっとしてしまい、次に言うべき言葉をなかなか思いつけなかった。だが、その狭い空間に沈黙が流れても、男は意に介さないように平然として自分のグラスを舐め続けていた。僕は何ともいえない居心地の悪さを感じ、とってつけたように「目立たないのに、よく営業してるんですね」などと初対面の相手に対してはいささか失礼なことを口にした。
  「看板など掛けずとも、お客は入ってくるもんなんですよ」と男は言った。そしてもう一度、あなたのお望みは何ですかと僕に訊いた。「あなたは何か心に闇を抱えていますね。ここはそんな人たちのための特別な場所なんです。普通の人はただ通り過ぎるだけで気付きません。そもそもあたしは、そういう人達を相手にしようとは思ってません。どうしようもなく何かに絶望した人だけにしか見えてこないものがあるんです。あなたの夢を叶えて差し上げますよ。さあ、話してください。心の隙間をお埋めします」。
  男がホーッホッホッと笑うと、僕は催眠術にでもかけられたように、この初対面の男に対して心の内側に錆のようにこびりついていた思いを洗いざらいぶちまけた。忘れ去られてほとんど酸素がなくなった水槽の中で力尽きかけようとしている魚が上がってくるみたいに、僕は口をパクパクと広げ、僕の中に僅かに残っていた何かを吐き出し続けた。知らぬ間に僕は泣いていた。そして男があの大きな目で僕の顔を覗き込んだとき、僕は「作業服の店をやってみたい」と言ったのだ。それは僕の中で長年温めていたアイデアだった。いつも僕が通っている近所の作業着屋よりも種類が豊富で、安く、簡単に、そして早く欲しいものが手に入る店。それをインターネットの中に作るのだ。そんな店があったら、どんなに便利だろう。
  僕の話を聞いて、男は笑った。そして、改めて自分はクロダルマの営業マンで、名前は喪黒だと名乗った。クロダルマはその時僕が着ていた作業着のメーカーだった。僕は何がなんだかわけもわからないまま、男の話を聞きつづけた。
  「作業服のネット通販なんて、きょうび星の数ほどできてますよ。今からやったって、もう大きな店には追っつけないです。ウチはメーカーですから、そうやって意気込んでネットの店を始めたものの、思ったように成果が上がらすに意気消沈する人をたくさん知っています。落胆して別れの挨拶に来るとき、彼らは必ず始めるのが遅かったって言うんです。ライバル店がないうちに早く始めていさえすれば、もう少しうまくいったはずだと悔しがるフリをするんです。でも、その演技はあたしに対してしているんじゃありません。自分自身を慰めるために、自分自身に対してそんな演技をしなきゃいけなくなってしまうんです」。男は厳しい顔でそう言ってから、今度は一転しておもねるような態度になり、何かの秘密を打ち明けるように声を落とした。「でも、あなたは安心していいですよ。クロダルマとこのあたしがバックにつきますから大丈夫です。そうそう、あなたには一つお店を差し上げましょう。なに、あたしが趣味で個人的に作ってみたものですから、お金はいりません。その店でクロダルマの作業着を売ってくれればそれでいいんです。屋号はまいど屋っていうのはどうでしょう。なかなかいい名前だと思いませんか。一度来店してくれたお客さんにまた来てもらえるかどうかが商売のキモですからね。だから商人はいつも口癖のようにまいどって言ってお客さんに感謝の気持ちを表しているんです。ちょっと、聞いていますか」。
  僕は返事をしなかった。狐につままれたような気持ちになって、どう答えていいのかわからなかったのだ。男の話の要点は極めて明確だったが、僕にはそれが世界平和を訴えるジョン・レノンの歌のように遠く響いた。僕は男がその大きな口から剥き出して見せる白い歯並びを意味もなく見つめ続けた。そしてようやく、「本当にあなたは誰なんです」と男に言った。
 
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  「あたしはしがない営業マンですよ。クロダルマを売っている営業マンが、たった今、見込みのありそうなお客を見つけたってわけです」。男は腰かけていたスツールから立ち上がるとこちらに近寄ってきて僕の目の前に立った。背丈は思ったほど高くなく、むしろ低いと言った方がいいかもしれなかった。背恰好に似合わない、身体の各パーツの大ぶりな作りが、男を実際以上に大きく見せていた。「作業服の他に、少々夢も売っていますがね。だからこうしてお近づきの印に、あなたにまいど屋を差し上げるんです。古今東西、使い古された手ですが、これがけっこう効くんですよ。タダのプレゼントで客の心をつかんで、商売はそのあと時間をかけてゆっくりやればいい。なんてったって、あたしは優秀な営業マンだから、そんなテクニックくらい訳なく使いこなすんです。ただし、これはテクニックですからね。そこはやっぱり最終的には商売ということで、一つだけ条件があるんです。おっと、そう構えないでください。いや、そんなに大変なことじゃありませんよ。あなたは毎月一回、何かテーマを見つけてそれについて書けばいいんです。今の工場勤務に比べたら、大したことじゃないはずです。それをあなたに差し上げるホームページの真ん中に載せるんです。タイトルは月刊まいど屋ってことにしておきましょう。もし約束を破ったら?ホームページは消えてなくなります。そうです、跡形もなく。そしてあなたはまた元の工員に戻るんです。お客さんはどうするのかって?あなたは随分と心配性だ。そんなことは考えなくていいんですよ。あなたが戻っていく世界には、もともと、まいど屋は存在していないんだから。誰かに非難されたり、詐欺だと追いかけられたりすることはありません。だって、考えればわかるでしょう、まいど屋で買い物をしたひとなどそこにはどこにもいないんですよ。ただ、これがあたしが売る夢のたったひとつの欠陥なんですが、あなたの記憶にだけはまいど屋が残ってしまうんです。あたしは正直だから話します。こういう不具合は、本当はちゃんと直してから販売するべきなんですがね。まあ、とにかく、あなたはその元の世界で、そこにはなかったはずのまいど屋の記憶と共に生きることになる。記憶は一生ついて回ることになるんだ。多分、それはつらい経験になるはずです。自分が引き裂かれたように思えて、実際に身を裂いてしまうかもしれません。そうならないように頑張ってほしいですが」。
  男はようやく話を終えると、骨董市で値踏みをするような視線を僕に投げかけ、それから意味ありげににやりと白い歯を見せた。そして、もうこれ以上、質問は受け付けないのだと言った。いろいろ細かいことを尋ねて情報を集め、何かを知った気になったって、それは結局、本質的な判断を誤らせるだけなんですよ。ものごとを決めるとき、直感が一番信頼できる材料だってのは、昔から変わらない真実なんです。いいのか、悪いのか、そうしたいのか、したくないのか、心を静かにして訊いてみるんですよ。そうすりゃ、おのずと答えが聞こえてきます。耳を澄ませば、はっきり聞こえるんです。僕は呆けたように口をあけているだけだった。僕は男が話した内容を必死になって思い返そうとしたのだが、僕の心を確かに捉えていた何かは、頭の中でさざ波のようのものに姿を変え、捕まえようとすると僕の手をするりとすり抜けて引いていった。長い話の余韻が、どこか遠くの古い民謡のように僕の虚ろな頭にこだましていた。なぜ男が月刊まいど屋にこだわっているのか、やはりそれだけは知りたかったのだが、僕は諦めて口をつぐんだ。男に促されるようにしてようやく僕が言えたのは、たった一言だけだった。「だけど、約束を守っていれば、僕はそんな目に遭わずに済むんだよね」。
  男は呆れたように僕をじろりと睨んだが、営業らしくすぐに笑顔を取り戻し、もちろんだと言って、またあの甲高い笑い声を立てた。
 
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  僕は男が売った夢を買った。契約書などは交わすこともなく、僕はただ男の言葉に頷いただけだったのだが、それで合意は成立したらしかった。男が人差し指を僕に向け、何かの合図のように「どーん」と言うと、僕の視界は一瞬で暗くなった。気が付くと、僕は今僕が仕事場にしているまいど屋の前に立っていた。初めてくる場所だったが、僕にはなぜか勝手がわかっていた。ドアのかぎを開け、オフィスに入り、パソコンを起動して最初の月刊まいど屋を書き始めた。途中、何の気なしにヤフーを開き、ニュースをチェックすると、その日は2007年の大晦日だった。あの男が安心していいと胸を張って保証した通り、まいど屋はそのスタートが遅すぎることにならないよう、どこにもライバルがいない、まだ作業着のネット通販など邪道だと業界の誰からも相手にされることもなかった時代にその一歩を踏み出したのだった。
  その日から今日まで、僕は男との約束を守り続けてきた。ついでに書くと、その間、クロダルマの商品だってかなりの数を販売したと自負している。その点を男が評価するのかどうかは僕にはまったくわからないのだが、とにかく僕なりに精いっぱい努力はしてきたつもりだ。ひとりで始めたまいど屋も、今では大勢のスタッフが働くいっぱしの企業になっていた。そして今日で月日は一巡し、丁度二度目の2016年12月31日を迎えたのだ。
  もし僕が、今日をもって月刊まいど屋の筆を置き、まいど屋のトップページから僕を監獄に押し込めてきたこの醜悪なコーナーを外してしまったら、一体何が起きるのだろう?まいど屋は人々の顔を美しく照らそうとしていた冬の夕焼けがあっという間に星空に飲みこまれてしまうように儚く消え、秘密を打ち明けたこの僕の文章を読んでいる読者の皆さんもまた、そもそも初めからいなかったこととして存在が失われてしまうのだろうか?そして僕は嫌々出勤を強制され、疲れ切った足取りで工場からの家路についたあの大晦日の晩に帰るのだろうか?冷たい風の吹く薄暗い路地を歩き、途中で意識を失うこともなく僕は無事にアパートに帰りつく。階段の下の水たまりは、もう厚い氷になっている。僕はそれを見て少しだけはしゃいだ気持ちになり、またがずにその氷を踏みしめる。靴底が滑る感覚を何度か繰り返し楽しんでいると、来年こそはいいことがあるかもしれないと思ったりする。そう、明日からはもう2017年なんだ。僕が踏み出す、まっさらなその世界には、僕が自分の意志で決められる、僕自身の未来が待っている。本当にいいことがあるかもしれない。訳などないけれど、なぜかそんな気がしているのだ。
 
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ドーン
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バーのある地区へ向かうトンネル