【月刊まいど屋編集部】笑う女image_maidoya3
その電話は夜中に突然かかってきた。夜の12時を回り、僕は一人残ったまいど屋のオフィスで帰り支度を始めていたところだった。しつこく鳴りやまない呼び出し音に舌打ちをして、僕はデスクに置かれた電話機を睨みつけるように見た。赤く点滅を続けていたのは、たくさんの回線があるうちの業者間の連絡専用に使っている外線だった。ディスプレーに表示された携帯番号には見覚えがなかった。
  こんな時間に電話をしてくるのはロクな用件でないのが目に見えていた。今すぐ何とかしてくれと切羽詰まった調子で思ってもみなかった頼まれごとをされるか、酔っぱらいの間違い電話かのどちらかだ。前者であれば、もう遅いからなどと逃げようとしても、いいや今すぐでなければダメなんだと不毛な堂々巡りが繰り返されることになる。そしてそれでも無理だと言って電話を切ろうものなら、まるで僕が我がままを押し通す非常識な人間のように恨まれて、翌日からの仕事に差し障りが出ることになる。また、後者であれば、酔っ払いに特有の驚異的な弁証法で、僕がその電話の主が酔っ払いではないという理解に達するまで、僕の予想もつかないような論理的展開に延々と付き合わされることになる。どちらにしてもあまり心楽しい会話にはなりそうになかった。僕は普段、自分が窮地に立たされることを喜ぶようなマゾヒズムを持ち合わせてはいないのだが、このときは、その諦めを知らない不屈の呼び出し音に根負けし、とうとう受話器を持ち上げてそれを耳に当てた。僕の予想に反し、受話器からこぼれ落ちてきたのは、前者でも後者でもない、全く違ったタイプの声だった。
 

月刊まいど屋編集部
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「人を殺したことがありますか」と女の声が言った。もしもしも、挨拶もなく、ただいきなりそう訊いた。そしてそれきり沈黙し、しばらくすると今度はくすくすとした笑い声がした。女は僕の答えを待っているらしかった。「殺したことはない」と僕は言った。
  「殺したことがない」。女は歌うように僕の返事を繰り返した。それからそれをまるで信じていないといった調子で、「そうなのね」と言った。聞き覚えのない、ハスキーな声だった。酔っ払っている感じは全然なかった。話し方は僕を非難しているようではなく、声のトーンにはむしろある種の親密さが混じっているように思えた。微かに湿り気のあるくすくす笑いがまた聞こえてきた。
  「お間違いかと思うのですが、ここはまいど屋です」
  女はびっくりしたように笑うのをやめ、それからさも心外だといった風に「知ってるわよ」と呟いた。
  僕は電話に出なければよかったと後悔し始めた。そしてどうやってこの不毛な会話を終わらせようかと考え始めた。相手が何か頼みごとをしているのなら、その要求を受け入れてやればいい。酔っ払いであれば、あなたは酔っ払いではないと認めてしまえばいい。そうすればとりあえず電話を切ることができる。だが僕は、ハスキーな声の女に対処する方法をそのとき全然持ち合わせていなかった。そして親しげな笑い声が漏れ聞こえている受話器を置くことは、それに輪をかけて難しいことに思えた。
  我ながらあまり筋がよさそうには思えない、それでも淡い期待をこめて言った「もしかしたら何かの冗談ですか?」という僕の言葉は、予想通り何の効果もあげないまま、僕があごに挟んでいる受話器にむなしく吸い込まれていった。僕は女に気付かれないようにそっと深いため息をつき、彼女が何かを言うのを辛抱強く待った。それから何かの雑誌で読んだ竜王のインタビューをふと思い出して、一流の棋士が厳しい局面でしばしば頼りにするという定石を実践してみようと思い立った。状況を冷静に判断し、焦らず、相手が耐えられなくなって動き出すまでは、ヘタな行動を起こしてはいけない。動いた方が負けになる。一撃で勝負を決められる時が来るまで、守りを固めて様子をうかがっているのが一番いい。辛抱強さは勝者に不可欠の資質なのだ。もしこの会話に、勝者というものが存在するならばの話だが。
  「私は知ってるのよ」。竜王が忠告してくれた通り、とうとう女が口を開いた。
  「知ってるって、何を?」
  女は自分の給料明細に何かとんでもない間違いを発見したかのように電話の向こうで再び絶句し、それから急によそよそしい声で言った。「あなたのことに決まっているじゃない。あなたのことをたくさん知ってるの。あなたがあなたのことを知っている以上に、私はあなたのことを知ってるのよ」。
  僕はようやく自分のペースを掴みかけていることを知った。そろそろ決着をつけるときだった。「わかった、君は僕のことを知っている。僕はこれから家に帰らなくちゃいけないんだ。それも知ってるよね。わかったらもう電話を切るよ。それじゃ、おやすみ」。
  僕は受話器を戻して電話を切った。ほっとして椅子から立ち上がると、また電話が鳴った。無視しておいてもよかったのだが、僕は受話器を取った。勝負がついた後の余裕が、僕を軽率にしていたのだ。あのですね、と僕が言いかけると、女はまた唐突にしゃべり始めた。
  「殺したことがあるわ」と女は楽しそうに言った。「あなたが私を殺したのよ」。
  百戦錬磨の竜王も、時にはミスを犯すことがある。見事に決まったように見える渾身の指し手が、一瞬ののちにはどうしようもない悪手だったと判明することもある。僕は深く絶望して首を振り、女がまた何か言いかけているのも構わずにそのまま電話を切った。
 
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  それからまいど屋には毎晩電話がかかってくるようになった。電話が鳴るのは決まって夜遅く、僕の他にはスタッフが誰もいない時間だった。僕が受話器を取り上げると、女はいつもあの囁くようなくすくす笑いを幾度となく会話に挟みながら、彼女が信じている物語を物語るのだった。話はまいど屋と僕との関係についてのことが多く、そこに彼女の感想やコメントが加えられていた。そしてそれがどんな話であるにせよ、物語にはいつも秘密めいた匂いが付きまとっていた。僕は最初のうちこそ真夜中の呼び出し音を鬱陶しく思っていたのだが、そのうちすっかり慣れてしまい、終いには彼女との会話を待ち焦がれるようになっていた。サポートセンターの業務が終了する夜の7時半を過ぎると、何となく落ち着かない気持ちになり、早くスタッフが全員帰らないかなとさえ思うようになった。遅くまで残ろうとするスタッフをほとんど難癖に近い理由で急き立てるように追い出し、電話のベルが鳴るのを待ち構えた。
  ときどき、彼女はまいど屋の中にいなければ絶対知るはずのないことを言った。例えば、僕がその日着ていたシャツの色だったり、スタッフと会話した話の内容だったり、話が具体的で、あてずっぽうにしてはあまりに臨場感があって正確だった。僕は最初、どこかに隠しカメラでも仕掛けてあるのではないかと疑い、オフィス中を探し回った。だが、女の話が僕が丁度ブランドを変えてみたばかりのシャンプーの香りにまで及ぶに至り、僕は隠しカメラ説を放棄せざるを得なくなった。もちろん、隠しカメラのことを考える他に、まいど屋の内部にいる大勢のスタッフ一人ひとりの顔を思い浮かべ、頭の中でそれなりの吟味を行ったことを僕はここに告白せねばならない。それはこういう状況に置かれた場合なら、誰もがするであろう、ある意味では極めて真っ当な推測ではあったが、やはり僕にとっては何とも言いようのない後味の悪さが残る、一緒に働いている仲間に対する裏切り行為のように思えて僕の良心を苦しめた。何度も考えた末、僕は内部の人間説を一度は頭から追いやった。大体、あのような声のトーンで、あのような話し方をする人物は、僕の知る限りまいど屋の中にはいないのだ。もし女がまいど屋のスタッフであるならば、当然、その夜の電話の時には、意識的にカモフラージュした声色を使っていることになる。そして昼間の間、僕を観察し、僕と会話をしたことを、夜になってプロの女優として即座に主役が張れるほどの演技力であれこれ僕に物語っていることになるのだ。わざわざ手間をかけてそうした込み入ったことをする理由など、誰にもないはずだった。僕はスタッフの誰とも、世間一般の常識的な基準に照らせばまず良好と言える関係を築いていると自負していたのだから。
  だが、そうして僕がようやく自分の鬱々とした心持ちに区切りをつけ、何か別の可能性を考え始めていた矢先、女は徐々に、昼間彼女が何をしているのかを仄めかし始めた。はっきりとしたことは言わないが、彼女は毎日僕の近くにいるのだというニュアンスを、言葉の端々に頻繁に滲ませるようになった。彼女は僕の一挙手一投足に注意を払っていた。そして同じように僕の注意が彼女に向くことを願っているのだと言った。
  顔のない女。あのハスキーな声だけで、僕を落ち着かない気持ちにさせてしまう女。僕は何かが起こることを期待せずにはいられなくなっていた。そこにないはずの女の身体から溢れ出た匂いが僕の鼻腔を満たし、僕を果てしなく遠くへ、同時に僕の内側の遙か深くへと手招きした。女は時に僕に自信を与え、時に僕を不安にさせた。その女と電話で話すことは、僕にとって身を焦がされるほどの幸福感に変わった。会話は、それについて直截的な言及をしてはいないにせよ、性的なエクスタシーのようなものを含んでいたのかもしれない。だが、その悦びと僕の近くにいる実際の人びとを疑わなければいけない苦しさはまた別のものだった。そのことで僕の心はいつも引き裂かれた状態に置かれることになった。
  僕は少しずつ、正常な精神を失っていった。ある時、僕は我慢ができなくなり、昼間、オフィスに大勢のスタッフが揃っていたときを狙って、手帳に書き留めておいた女の番号に電話してみた。それは誰にも知られずに、女を盗撮するようないかがわしさとスリルに満ちた野蛮な行為だった。オフィスにいる誰かのポケットか、カバンの中で呼出音が鳴ることを期待したのだ。僕は音のする方に近づいて、女の顔を見る。女の目が左右に揺れ、それから観念したように僕の目をまっすぐ見上げる。開き直った眼差しが裁きの言葉を待つように僕に注がれ続ける間、彼女は何を思うだろう?
  だが、部屋のどこからも、呼出音はしなかった。代わりに、僕が握りしめた受話器からは、「この電話は現在使われておりません」というメッセージが流れてきた。使われていない?僕は不覚にも狼狽した。女を特定できなかった落胆よりも、もしかしたらもう女から電話がかかってこないのではないかという焦りの方がはるかに重大なこととして僕の心を占めていることに、僕は激しく動揺した。きっと、僕は錯乱しているように見えただろう。オフィスにいる誰彼かまわず近づいては、昨晩女がしゃべった内容をカマをかけるように呟いた。そのうちの何人かには、「君を殺しちゃったね」とさえ言ってみた。だが、皆、ぽかんとした顔をこちらに向けるだけで、見込みのありそうな反応は全くなかった。
 
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  その夜、女からはまた電話がかかってきた。ナンバーディスプレイに表示されているのは、僕が昼間に試した番号だった。女は電話口でくすくすと笑った。そして、「私はかくれんぼが嫌いなのよ」と言った。「子供のころ、かくれんぼをすると、いつも誰も私を見つけてくれなかったの。あんまり出てこないものだから、みんな私が隠れていることさえ忘れちゃって、そのまま帰ってしまうのよ。暗くなって出ていくと、もう誰もいないわけ。それで翌日に学校で会っても、かくれんぼのことなんかみんな忘れてるの。私がどんな思いでじっとしていたのかなんて知らないんだわ。でも、あなたは少しは一生懸命に探してくれたみたいね」。
  僕は「電話をありがとう」と言うのがやっとだった。それならなぜ僕の電話に出ないんだという質問は、僕ののど元に引っ掛かったまま外に出ることをためらい、再び僕の胸の中へと落ちていった。女は毎日、電話を解約したり契約し直したりしているのだろうか?なぜ、そんなことをするのだろう?そして、なぜ、毎晩僕に電話をかけ続けているのだろう?
  しばらく当たり障りのない会話を続けてから、「ねえ」と女は打ち解けた口調で唐突に言った。「あなたにはブルーのブレスレットが似合うと思うの。私はブルーのブレスレットをしている人が好きなのよ」。
  「僕にはアクセサリーを付ける習慣がないんだ」
  「ブルーのブレスレットには、直観力を研ぎ澄ます力があるの。そして過去に受けた傷を癒しながら、前へと進んでゆく力を与えてくれる」。女は僕の言葉など全く意に介さないように言った。「あなたは目の前のことに集中しすぎて、周りが見えなくなっていることがよくあるのよ。あなたがどうしてそうなってしまうかわかる?あなたは自分で気付かないふりをしながら、自分自身に目隠しをしているのよ。神話が神話であることがはっきりしてしまうことを恐れて、自分が作った虚構の中から一歩も外へ出ようとしないでいる。だからあなたは周囲が見えないの。そして自分のこともわからなくなっているの。あなたはもっと自分のことを知り、あなたの心が本当に求めていることに気付く必要があると思う。ねえ、あなたは自分の痛みに鈍感になっているからこそ、ひとを傷つけても気が付かないのよ。ちょっとしたことであなたは生まれ変われるのに。そうすれば・・・」。
  「僕は傷など受けた覚えはない」と僕は女の言葉を遮った。そして「かくれんぼは探す側への思いやりがないと成立しないんだ」と言ってそのまま電話を切った。何かにすがりつきたいような気持で受話器を見つめ続けたが、いつまでたっても呼出音は鳴ってくれなかった。
 
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  次の週末に、僕は渋谷の繁華街でブルーのブレスレットを買った。女子高生たちがたむろしているような店で気恥しかったが、僕は勇気を振り絞って店員さんに声を掛け、何とかそれらしいブレスレットを手に入れた。ブルーオパールやら、アパタイトやら、僕が選んだそのブレスレットを構成する石について、若い男性の店員さんは熱心に説明してくれたのだが、残念ながら僕は何一つ覚えていない。ただ、彼の話が晩夏の海岸に打ち寄せる波の音のように心地よく聞こえ、僕を幸せな気持ちにさせてくれたこと以外は。
  僕は綺麗にリボンを掛けられた小さな箱を両手で包むように大事に家に持ち帰り、日が暮れて部屋が暗くなってしまうまで、飽きずにその箱を眺めつづけた。夜はそれを自分の腹部に抱きかかえるようにして眠った。翌朝、僕はまいど屋に出勤する直前になってリボンをほどき、小さな箱の中でひっそりと横たわっていた青いブレスレットを取り出した。大小、いくつもの玉が連なったその一つひとつをそっと指先で撫でてから大きく息を吐き出して左手にそれをはめ、僕はオフィスへと向かった。
  あの日以来、女からの電話は絶えていた。そのことが僕を、自分自身に対してもう隠すことができないほど打ちのめしていた。それははっきりと自覚できる絶対的な渇きだった。そして僕が意識して直視することを避け続けてきた、僕の本能が閉じ込められてきた場所でいつまでも痛み続ける傷だった。
 
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  まいど屋の社内では、僕のブレスレットに気付いて何かを言ってくるスタッフは誰もいなかった。僕はほっと安堵したと同時に、激しく気落ちした。どこかで彼女が僕のブレスレットを目にすることを強く願いながら、どうしようもない無力感に苛まれて仕事を続けた。仕事の合間には僕はわざと腕まくりをし、腕を大きく振るようにして社内を歩き回った。だがやはり、僕に注意を払っているように見える者はどこにもいなかった。そして何事もなく一日が終わり、全員が帰宅してしまうと、僕は放心したように自分のデスクに座り込んだ。何をすることもなく宙を見つめていたとき、電話が鳴った。
  「やっぱり似合ってたわよ」と女が言った。温かみのあるくすくす笑いを含ませた、親密な声だった。「私は本当にうれしかったのよ。だからこうして電話をしているわけ。ねえ、知ってる?私も今日、ブルーのブレスレットをしていたのよ。ブルーのブレスレットには、他に絆を強めるっていう意味もあるの」
  僕は今日オフィスで仕事をしていたスタッフ全員の顔を思い浮かべた。だが、誰のことを考えても、それがこのハスキーな声の女であるとは思えなかった。その上、スタッフの中に、ブルーのブレスレットをしていた者など一人もいなかった。何故そんな風に断言できるのか?僕は自分が生まれて初めてブレスレットをしたこともあり、他人の手首がどうなっているのか気になって仕方がなく、会う人会う人いちいちチェックをしていたからだ。
  「君は誰なんだ?どうして電話でしか話ができないんだ?」僕はこみ上げてくるものを押さえつけるように静かに言った。「もうゲームは止めたい。僕たちは会って話をするべきだ。声だけでなく、お互いに姿を見せて、嘘のない言葉を伝えるべきだ」
  「会っているわよ、毎日。私はいつもあなたを眺めているのよ。でもね、生身の身体をぶつけ合って一時だけの共感を手にするよりも、こうして声だけを頼りに何かを届けていた方が、理解が深まることだってあるのよ。私はこんな風にずっと過ごしていけたらいいと思っている。私はあなたを許したわけじゃないのよ」
  僕はその残酷な言葉にくじけず、言葉を振り絞った。「君には本当に悪いことをしたのかもしれない。君は死んでいるのか?僕は本当に君を殺したのか?」
  「殺したのよ」と女は言った。それから意外にも、僕が今月号の第一部で書いた「笑ゥ営業まん」の話をし始めた。「物語の最後で、あなたはまいど屋が消えてしまった世界がどうなるかについて書いてたわよね。あなたが何もかもを放り出し、まいど屋が消滅すると、まいど屋が属している世界そのものが消えてなくなると。そしてその世界とは、月刊まいど屋を読んでいる読者のことなんだと言おうとしてた。でも、まいど屋で働くスタッフのことは何も書かなかった。まいど屋が消えると、スタッフは、わたしはどうなるの?結局、あなたは私のことなど、頭の片隅にもないのよ。あなたは人を傷つけるの。そして最後は殺してしまうの」。
  「僕は君が誰なのか知らない」
  「知らなくていいのよ。それはたいして重要なことじゃないわ」
 
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  その日から、女はまた電話をしてこなくなった。そして何年もの月日が流れ、僕がいよいよこの月刊まいど屋をやめる日がきても、僕はまだその青のブレスレットをして仕事を続けていた。夜、寝るときでさえ、僕はそれを離さなかった。
  電話が途絶えてしまった最初の頃、僕は誰と話してもこの人は違う、この人も違うと絶望を続け、自分の殻に閉じこもりがちになっていた。スタッフに何か言われても、うわの空でいることが多くなった。僕の頭の中では、あなたを許してはいないという女の言葉がいつも鳴り響いていた。僕は彼女を愛していた。同時に、彼女をひどく憎んでもいた。そして振幅の激しいその揺れを何度も繰り返し、やはり、彼女が存在しない世界には自分のいる場所などないのだと確信するたび、僕には彼女を僕の元に取り戻す方法が全く残っていないことを改めて思い知るのだった。
  蛇足になるが、最後に、この話は読者の皆さんのためにではなく、僕との連絡を絶ってしまったあの顔のない女のためだけに書いていることをここにはっきりとさせておきたい。彼女がどこかで、今なおまいど屋をチェックしているかもしれないという微かな可能性にしがみつくようにして、僕はこの月刊まいど屋に掲載するにはいささか場違いで奇妙な物語を記してきた。物語は長い間僕の中にそっとしまわれてきた、僕の偽らざる想いをほとんど隠し立てすることなく--もっと正直に言うとするならば、彼女が気分を害してしまうことに多少の不安を感じながら--綴られている。時にあからさまに過ぎるような表現もあえて交え、それを恐れずに実行することで、僕は彼女に、僕が本当のことを話していると信じてほしかったのだ。僕はいまだにその女のことを愛している。そして、今、この文章を書いている僕の左手には、相変わらずあのブレスレットが揺れていることを、知っておいてもらいたいと思う。長い年月を経て、それは最早、僕の肉体の一部と化している。それは僕の肉そのものであり、そして同時に僕をかろうじてこの世界につなぎとめている最後の命綱のようなものなのだ。
  今でも僕は、夜になると女の携帯番号がディスプレーに表示されるのを待つように、一人じっと電話機を見つめていることがある。あのハスキーな声を、目の前にある受話器を通してもう一度耳にすることなど、もうとっくの昔に諦めてしまったはずなのだが。
 
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仕事を終えた後のオフィス
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何年も僕の腕にあるブレスレット