【特集1】「国宝天守」で城を学ぶ!image_maidoya3
そうだ、お城に行こう! クリスマス飾りがちらほら出始め、徐々に年末の雰囲気が立ち昇りつつある街を歩いているとき、編集長は思った。ワークウェア界における随一のクオリティマガジン「月刊まいど屋」。その新年号を飾るのにふさわしいテーマは「城」なのではないか? 建築だけでなく土木・石積み・造園・工芸といった職人技術の結晶であり、現在も街のシンボルとしてだけではなく、地域の来歴を語るものとして広く親しまれている城――。これこそ、月刊まいど屋がフィーチャーすべきジャンルだろう。天守閣は雄々しくてカッコいいし、なんだかおめでたい。現存する城を訪れれば、かつての職人たちの技術を見ることができるだろう。そんな歴史の残る仕事ぶりは現代の職人たちの心にも響くものがある……いや新年早々、職人魂を熱く燃え上がらせてくれるに違いない! だが、ここでひとつ大きな問題がある。編集長が「城」についてほとんど何も知らないという問題が。もちろん人並みには観光で城を訪れたりしているのだけれど、ハッキリ言ってしまえば、どの城も同じように見える。「この地域では○○氏と××氏が~」といった歴史的な背景を学ぼうにも、さまざまな勢力が入り乱れる中世の構図はややこしくてついていけない、というのが正直なところだ。そこで今回は、城の楽しみ方を教えてくれる「助っ人」を頼むことにした。はたして、まったくの素人でも城の魅力がわかるのだろうか?

特集1
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ガイドを引き受けてくれた萩原さちこさん
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重要文化財の「天秤櫓」
●城それぞれの個性を知る
 
  彦根城に決めたのは大阪から近いと思ったからだ。京都から大津を経由し、琵琶湖の東側を走る東海道本線を北上すればすぐに着くと思っていた。ところが、乗り換えを調べてみると「片道2時間」と出てくる。京都-大阪間を30分で結ぶJRの新快速なのに、嘘だろ? と路線図をチェックしてすぐ納得した。彦根は米原の手前なのだ。米原といえばJR西日本とJR東海の境界駅で、ほとんど北陸。さっそく自分がいかに彦根に関心がなかったかを思い知らされた。
 
  城は8:30オープン。朝型の編集長にはありがたいスケジュールではあるけれど、さすがに5時台に出発するのはキツい。6時過ぎに家を出て9時ごろに彦根城に入るプランを立てた。スマホで彦根の地図を見たりしているうちに、大阪発の新快速は京都と大津を通過し、米原に向かって北上してゆく。琵琶湖は住宅地や田畑の向こう側にあってほとんど見えない。
 
  近江八幡を通過し、そろそろ彦根に近づいてきたので車窓からまわりを見る。と、さっきまで晴れていた空がみるみるうちに曇りはじめ、彦根の手前になると雪まで降りだした。鉄道ファンなら誰でも知っている「米原はいつも雪」という現象である。しかし、そんなことはすっかり忘れていたので雨具などは当然持っていない。雨を嘆きつつ彦根駅でホームに降りると、関西とは段違いの寒さであった。この日本海側のようなじめじめした寒気のこともすっかり忘れていた。念のためカバンに入れておいた使い捨てカイロをさっそく腰に貼り付ける。
 
  駅前の観光案内所で今回の取材の助っ人に会うことができた。著作や講演活動などで城の価値や魅力、楽しみ方を発信している城郭ライター、萩原さちこ氏だ。この企画の下調べとして、城の入門書をいろいろめくってみたなかで、唯一、バリバリ初心者向け・歴史わからない人向けの「お城本」を旺盛に執筆しているのが萩原さんだった。事情を話すと快くガイドを引き受けてくれた。
 
  濠を渡って彦根城のエリアに入った。天守が見える。が、別段グッとくるほどでもない。表門口を通って、雪まじりの雨を受けながら、侵入を防ぐために歩きにくくしてある石階段を登っていると「楽しもう!」というノリが急速に萎んでいくのが自分でもわかる。それでも、これだけは聞いておかねばならない。かじかむ手でペンとメモ帳を握りしめながら萩原さんに質問する。あのー、城ってどんなふうに見ればいいんでしょうか?
 
  「城はひとつとして同じものはなく、それぞれ個性があります。それを理解するためには、まず①時代②軍事③役割――の3点に注目するといいでしょう」
 
  いきなり高度な話になってきた、というこちらの表情を察したのか、萩原さんはすぐ次のようにフォローしてくれた。
 
  「あっ、武将のファンだったり、天守がカッコイイからというのでもいいんですよ。ただ、城の違いを知るのは大事なことです。たとえば天守が好きだったら現存する12の天守を見に行ってみたりしてそれぞれの特色に注目すれば、より楽しめると思います」
 
  城ごとの違いを知る上で、萩原さんがポイントのひとつとして挙げるのが「縄張り」である。縄張りとは城郭の設計やレイアウトのことで、時代はもちろん当時の軍事情勢や城主の財力によっても大きな違いが出ているという。専門用語を使うと少々小難しくなってしまうけれど、この「ナワバリ」という言葉だけは本格派でカッコイイので、興味のある読者にはぜひ覚えておいてもらいたい。
 
  ●「切り札」としての彦根城
 
  石階段を登っていくと、石垣の上にこちらを見下ろすような建物が出てきた。重要文化財の「天秤櫓」である。左右の大きな建物が釣り合っているように見えることからこの名が付いたという。もし、こちらが敵だとすると、ここを通って本丸に向かうときは上から矢や鉄砲を浴びせられるわけだ。このように、城の建物や堀切は、ただの飾りではなくすべてに機能的な意味がある。そう考えるとちょっと城の見方が変わってきた。
 
  「ポイントは『城は家じゃない』ということですよ。城は軍事施設であり政庁なので、明らかな目的をもって作られます。城の姿は時代によって異なり、地勢や社会情勢によっても変わる。たとえば、古くは弥生時代の吉野ケ里遺跡(佐賀県)のような環濠集落も集落を守る城といえるし、戦国時代には高い山の上に実戦を想定した山城がたくさん築かれます。いま見ているような天守が作られるようになるのは城の歴史では最後の方です。では、彦根城はどんな目的で、誰が、なぜこの場所に築いたのか? 軍事施設としてどんな機能や仕掛けを備えているのか? こんなふうに考えていけばいいんです」
 
  受験で日本史を学んだ人は、彦根城といえば井伊直弼、安政の大獄……という具合にキーワードがうかんでくることだろう。しかし、城を正しく知るためには、有名な人物のエピソードではなく城そのものの成り立ちを押さえておく必要がある。萩原さんの解説や資料から彦根城の来歴をまとめると次のようになる。
 
  関ヶ原の戦い(1600年)のあと、徳川家の重臣、井伊直政は石田三成の居城だった佐和山城を与えられた。直政の跡を継いだ井伊直継は、佐和山城の移築を検討し、より琵琶湖に近い彦根山に決定。1603年に築城が始まった。その後、大坂冬の陣・夏の陣(1615年)にかかわる工事休止を挟んで、1620年代には城下町も含めてほぼ完成した。
 
  流れとしてはこうだ。ただ、なんでわざわざ佐和山城を捨てて新しい城を作ったのか、どうしてこんな立派な城を必要としたのかなど、いろいろと疑問がわいてくる。
 
  「そこは『徳川家の天下獲り』の視点で見るとよくわかります。関ヶ原の戦いで西軍を打ち破ったとはいえ、まだ豊臣秀頼は大阪に健在で、豊臣恩顧の大名もたくさんいる。『もし、豊臣方が結集して戦いを挑んできたら……』と、徳川家康は恐れるわけです。そこで家康は、決戦に備えて大阪方を封じ込めるための城を各地に整備する。とくに敵の進軍路となりえる主要な街道が通るこの彦根には、反徳川勢が結集して東に向かってくるケースに備えて、実戦的な城を作る必要があった」
 
  天下統一に王手をかけた家康が、豊臣側の逆襲に備えた「切り札」。それが彦根城なのだ。ただ、風光明媚でたくさんの観光客が集まる現在の彦根城から「決戦」のイメージを感じ取るには、かなりの想像力が要る。
 
  そうなると、この派手な天守も重要な機能があるのだろうか。
 
  「天守は実戦的な機能より『示威』の側面が強いですね。ここは石田三成の領地だったので、よそから来た井伊家としては、新領主の力を示したい。さらに、すごい威厳のある城を見せつけることがバックにいる徳川家の権力と財力の宣伝になるわけです。立派な天守には、まだ豊臣方と徳川方のどちらに付くか決めかねている大名に対し『おとなしく言うことを聞いたほうがいいぞ』というメッセージも込められていたでしょう」
 
  これまでは、単に大名が自らの権勢を示すために立派な城を作っていたと思っていたが、そんな深い意図があったとは……。彦根城の天守は、徳川家康が仕掛けた情報戦の一環だったのである。
 
  ●国宝指定の天守に登る
 
  石階段を上って大堀切の架橋を渡ると、彦根城の中心部分「本丸」が見えてくる。本丸をかたち作る高石垣は近くで見るとすごい迫力だ。石垣は補修されたり、新たな技術で積み直したりしているケースがほとんどだが、この彦根城本丸の石垣は、その多くが400年前のままだという。切ったり削ったりせず、自然の石をそのまま積み上げているのでワイルドな味わいがある。
 
  「天下普請の城」である彦根城の築城には日本各地の大名が参加しており、石垣もさまざまな積み方で作られている。要は、それぞれの大名が連れてきた石工による”ご当地技術”が披露されているのだ。
 
  太鼓門櫓をくぐると、ついに目の前に国宝の天守が現れた。日本に12カ所ある現存天守のうち国宝指定はたった5つ。つまり彦根城の天守は日本屈指のものなのだ。関西に何十年も住んでいるのにそんなことはちっとも知らなかった。そう思いつつ見上げると、ありがたいもののような気がしてくる。
 
  「これはけっこうデザイン性の高い天守ですよ。三重三階(3階建て)で決して大きくはないけれど、壁面を飾る破風(装飾付きの屋根)の数が多く、狭間(攻撃用の穴)が外側から見えないように漆喰で塗り籠めてあるのも芸が細かい。それに天守の形状が長方形だから、東西面と南北面で印象が変わります。全体的に実用性は高いけれど美観も損なっていない。華頭窓も飾られて格調高い天守です」
 
  天守の最上階からは、かつて城があった佐和山を望むことができ、逆(西向き)に回ると琵琶湖が見える。今は埋め立てられてしまったが、かつては城のすぐそばまで湖面だったという。しばらく戦に備える城主の心境を考えてみようと思ったが、床冷えで足の感覚がなくなってきたので下りることにする。
 
  天守を出て本丸を歩き回っていると、お昼も近くなったせいか人が増えてきた。年配の夫婦がいて、「あの破風みてみい! すごいやろ!」と興奮する旦那さんの声が聞こえてくる。「破風」なんて、これまでなら何を言っているかわからなくて完全スルーだったが、いまならわかる。たしかに、破風すごいっすね!
 
  なるほど、こういうのが城の自由な楽しみ方なのか――。現代まで城を守ってきてくれた先人たちに少し感謝したくなった。
 
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本丸の表門「太鼓門櫓及び続櫓」
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雨でも天守には人だかりできる