【鉱山編】炭鉱(ヤマ)に「近代日本」の原点を見たimage_maidoya3
全国3000万の作業服ファンのみなさま、ついに春が来ましたよ! 日増しに暖かさを増す陽光に、緑をゆらすかぐわしい風、幼さの残る小鳥のさえずり……こうなるともうじっとしておれず、土を這い出した虫のごとくパーッと飛んでいきたくなる――。と、そんな読者に今月の「月刊まいど屋」が贈る特集こそ、全国・作業服めぐりの旅、名付けて「ワークウェア・ジャーニー」だ!
 
  作業服やユニフォームのルーツとなった古今東西のウェアをはじめ、現代の珍しいワークウェアを訪ね歩くこの企画。心の底から作業服を愛する「まいど屋」にしかできない”ワークウェア成分”特濃コンテンツは、貴方を新たなステージに目覚めさせ、作業服なしでは生きていけないカラダにしてしまうに違いない。
 
  では、さっそく行ってみよう。まずは日本の近代産業の原点、石炭採掘の現場である。ごぞんじのとおり、鉱山はあのブルー・ジーンズを生み出したことで知られるワークウェアにとって「約束の地」。かつての炭鉱労働者はどのような環境でどんなウェアを身にまとって活躍していたのか?
 
  編集部はまず、炭鉱の街・福岡県に向かった。
 

鉱山編
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救助隊は鉱夫のエリートだった
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過酷な「手掘り採炭」の様子
●いざ、筑豊炭田の中心へ
 
  北九州の小倉駅で新幹線を降り、南へ続くJR九州・日田彦山線に乗って福岡県田川市に向かう。ふだん福岡に行っても特に「炭鉱の街」という感じはしないけれど、山裾のあいだを進むこの路線は違う。あちこちに山を削った形跡や採掘設備の跡があるし、「採銅所」といった駅名からも鉱山ムードがプンプンする。
 
  田川伊田駅で下車し、田川市石炭・歴史博物館に向かう。このあたりは筑豊最大の炭鉱であった「三井田川炭鉱・伊田坑」の跡地で、いまは歴史公園になっている。当時の煙突や櫓が残されているのに加えて、「炭坑節発祥の地」の記念碑まであった。「〽月がァ、出た出た~♪」というあの歌である。つまりここは国内炭鉱の中心地だったのだ。
 
  博物館には、かつて使っていた機関車やトロッコ、当時の労働者が暮らした炭鉱住宅(再現)の展示、さらには国内で初めてユネスコ記憶遺産に登録された「山本作兵衛コレクション(炭鉱労働の記録画)」の展示室まであり、想像していたよりずっと見応えがある。
 
  なかでも作業服ファンとして見逃せないのが採掘現場の再現ジオラマだ。ここでは切羽(きりは)と呼ぶ採掘の最前線が再現されており、採掘技術や労働環境の移り変わりを明治から昭和の閉山まで時系列に見ていくことができる。
 
  日本の産業革命を支えた筑豊炭田での労働とは一体どんなものだったのか?
 
  ふんどし一丁で穴に上半身をねじ込み、ツルハシを振る採掘人の姿がそこにはあった。鉱夫の後ろには腰巻だけ身につけた女性(奥さんのケースが多かったという)が、石炭を背負って運び出している。これが中小・零細事業所で行われていた「手掘り採炭」。それはワークウェアとか作業服とかいう以前の問題だった……。
 
  穴が崩れれば大ケガだし、そうでなくても長生きできないだろう。殖産興業、文明開化といった華々しい明治のイメージは、このような過酷を極める労働に支えられていたのだ。現代でも「3K」という言葉があるけれど、初期の炭鉱労働は「凄まじい・死ぬ・葬式も出せない」の「3S」と言える。
 
  ただ、この心胆を寒からしめるジオラマも、時代を大正・昭和に移せばだんだんマイルドになっていく。
 
  オーガドリル、コールピック、コールカッターなどの機械が登場し、作業員は作業着の上下にブーツ、ヘルメット、ヘッドランプといった現代とだいたい変わらない装備となる。ゲートル(脚絆)が使われたりしているのはやや時代を感じさせるが、戦後になるとほぼ今と同じスタイルで、作業服の左肩には今やおなじみの「ペン差し」まで登場する。初期から比べるとはるかに人道的な労働環境になっていたことがうかがえる。
 
  労働者が暮らしていていた「炭鉱住宅」は、家賃や光熱費は会社が持ってくれる。一方でトイレなどは共同。江戸時代の長屋みたいなもので、生活はけっこうギリギリだ。復元された炭鉱住宅を窓からのぞくと、浴衣を着た白髪交じりの親父(人形)が、ちゃぶ台で酒を呑んでいた。生活の憂さを晴らすのは、今も昔も酒なのだ。
 
  ●日本初の「炭鉱レスキュー隊」
 
  続いて、編集部は田川市から隣の直方市に向かった。目的の直方市石炭記念館は、遺跡としての規模は田川市に比べればずっと小さい。だたし、訓練用の模擬坑道や組合の会議所といった珍しい施設が残っているという。
 
  記念館は直方駅から歩いて10分ほど、街を見渡せる高台にあった。一代で財を成した炭鉱経営者が集まるのにふさわしい立地である。
 
  入館券を買っていると、いきなり「ガイドしますよ」と声をかけられる。観光ボランティアかと思ったら、記念館の館長だった。
 
  「これ珍しいでしょう。筑豊炭田、初期のころの採掘の様子です」
 
  と、館長はパネルを示す。さっき見たジオラマの通りかと思ったら、なんと鉱夫はふんどしすら身につけていない。マッパにツルハシ、である。
 
  「服を着て作業してると細かい石とか入ってきて痛いんですよ。ふんどしの中にも入っちゃうから、裸がいちばんだったみたいですね」
 
  なるほど、男なら非常によくわかる説明だ。ただ単に熱いから脱いでいるのかと思っていたら、そんな苦労話があったのである。
 
  採掘事情の話に加えて、この記念館の名物と言えるのが、筑豊石炭鉱業組合に関する展示だ。この記念館(本館)は、もともと1910年(明治43年)、同組合の会議所として開設され、麻生太郎元総理の曾祖父である麻生太吉、「筑豊の炭鉱王」貝島太助、安川財閥の創立者・安川敬一郎といった財界人の会合が行われてきた。組合を通じて、現在のOPECのように石炭の生産調整までしていたというから、さすがは国内最大の産炭地である。
 
  「うちは施設としては小さいものの、筑豊炭田のことを調べるのに欠かせない石炭鉱業組合の議事録が残っています。炭鉱産業の歴史などの学術調査をするなら、まずはここ直方市の石炭記念館へ、というわけです」
 
  労働環境や給与などの話を聞いていると「経営者は搾取しすぎでは……」と思うけれど、一方で刮目に値するエピソードもある。炭鉱の保安活動だ。
 
  組合では、あい次ぐ炭鉱事故から作業者を守るため、海外から高額な保安用具を買い、1912年(明治45年)には、会議所の裏手に国内初となる炭鉱救護のための訓練施設を作っている。つまりここ直方市は、日本における炭坑保安の「始まりの地」なのだ。
 
  救護隊は各炭鉱から選抜されたエリートで、会議所で研修やトレーニングを積み重ねた。いまも残る模擬坑道では、「実戦」に近い環境を作るため、坑内の温度を高める設備、煙を発生させる装置なども備え付けられていたという。
 
  「救護隊をつくるだけでなく、組合は、子供や女性の坑内作業や深夜労働の禁止など、労働環境の改善も進めていたんです」
 
  ふだんは作業員として働き、ひとたび事故が起きればレスキュー部隊として現場に駆け付ける。この記念館では、そんな歴史に埋もれた鉱夫たちの闘いを垣間見ることができる。
 
  炭鉱(ヤマ)の男たちの魂をヒリヒリと感じる、すばらしい産業遺跡だった。
 
  ●海底坑道に入ってみよう!
 
  まだまだ筑豊炭田には行ってみたい場所はあるけれど、ここで気分転換も兼ねてまったく別のエリアに向かうことにしよう。次の目的地は山口県の「宇部炭田」。筑豊炭鉱との大きな違いは、海底にトンネルを掘って採掘する「海底炭鉱」であること。炭鉱に「海底」が付くだけで妙にワクワクする。
 
  新幹線の新山口駅で下車し、瀬戸内海の方面に向かうバスに乗ると、20分ほどでときわ公園に着いた。ここは江戸時代に作られた巨大ため池「常盤池」のまわりに整備された公園で、中には動物園や遊園地などがある。宇部市民にとって憩いの場所であるこの場所こそ、宇部炭鉱の発祥の地だ。
 
  実際に閉山まで使われていた櫓が宇部市石炭記念館の目印である。入館料は無料。ほぼ同じタイミングで入ったカップルは15分ほどで出て行ってしまったので、広い館内をひとり占めすることになった。
 
  歴史をたどれば、宇部炭田も筑豊地方と同じように明治に入ってから採炭が本格化している。
 
  鉱夫たちが炭鉱住宅に住み込んで、共同生活をしていたのも同様で、ここ宇部でも1936年(昭和11年)ごろの長屋が実物大で再現されている。のぞいてみると、予想通りというべきか、親父(人形)が一升瓶の酒を黙々と飲んでいるのだった。田川市でも似たようなものを見たが、これが炭鉱の男のステレオタイプなのだろう。
 
  意外とワークウェアが充実している。ガスマスク姿の救護隊員といった特殊な装備だけでなく、ふつうの鉱員のウェアも実物がそのまま展示されていた。グレーの作業服のタグには「ニチボービニロン6162」と書かれている。どうやら現在のユニチカが作っていた作業服のようだ。やや劣化しているものの、デザイン的にはそこまでの古さは感じない。今もし工事現場で「はい、これ着て」と言われても、さほど違和感はないだろう。
 
  半ズボンの作業服もあった。タグには「MITSUMOMO/TWILL生地使用/綿100%」とある。ロゴマークから推測するに日清紡の製品だろう。ハーフパンツの作業服が昔からあるものだったとは知らなかった。
 
  最後に、実物大の再現坑道に入ってみた。地下に空気を送って排出するための「坑口」から入り、木やコンクリートなどで補強された坑道を下っていく。これが本物なら頭上に海底があることになる。田川にも直方にもなかった臨場感たっぷりの空間で、大人でもワクワクする。
 
  採掘現場の最前線、切羽(きりは)では、鉱員が作業をする様子が再現されていた。再現坑道は空調が効いて快適だけれど、実際はかなり蒸したはずだ。解説によると海底なので水がにじみ出るといった問題も多かったという。日本人離れした人形(マネキン?)の顔立ちはどうかと思うものの、病人のような生気のない顔色は、かなり「炭鉱労働のリアル」に迫っている気がした。
 
    ☆
 
  今回は西日本で3つの炭鉱跡をめぐった。だが、これでも序の口。まだまだ日本にはたくさんの炭鉱遺跡がある。日本の工業化を支えた先人たちの偉業を知るために、近くの人はぜひ足を運んでみてほしい。
 
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直方市に残る「ドレーガー式救命器」
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切羽(きりは)も再現されている