【軍事編】本場・呉で味わう「海のミリタリーウェア」image_maidoya3
ワークウェアの旅、2日目の舞台は広島県である。
 
  「広島なんかしょっちゅう取材しているじゃないの?」とツッコまれそうだが、さにあらず。作業服メーカーが集まる福山市・府中市ではなく、今回は訪問するのは呉市。戦争中の暮らしを描いた映画、『この世界の片隅に』の大ヒットもあって、いま県内でも最も注目を集めているエリアである。
 
  1886年(明治19年)に鎮守府が置かれた呉の街は、ずっと海軍とともに発展してきた。連合艦隊の旗艦「長門」も、あの悲劇の戦艦「大和」も建造したのは呉の海軍工廠である。そんな海事都市の伝統は戦後も引き継がれており、今も造船や鉄鋼といった産業に加えて、海上自衛隊に関する施設をあちこちで目にする。近年では艦上レシピをもとに考案されたご当地グルメ「海自カレー」も人気だ。
 
  ごぞんじの通り、作業服の先祖は軍服か制服といわれる。海軍関係の施設がたくさん残る呉なら、ワークウェアを考えるうえで新たなヒントがあるかもしれない。編集部は軍服文化を求めて呉の街を歩き回ることにした。
 

軍事編
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呉鎮守府司令長官の「大礼服」
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救命胴衣を着ける艦上スタイル
●鎮守府で海軍礼服を見る
 
  まずはJR呉駅をスタートし、かつて呉鎮守府の長官庁舎があった入船山に向かう。「山」とはいっても丘程度のもので、駅からも近い。アクセスする道には海上自衛隊の制服を売っている専門店があった。観光客向けの商品もあるらしい。こういうミリタリー系グッズというのは、使うシチュエーションがないのに欲しくなってしまうから不思議である。
 
  入船山には呉の歴史を伝えるミュージアム「歴史民俗資料館」がある。といっても鎮守府が置かれる前の呉は小さな漁村だったから、資料の大半は海軍関係のものだ。主人公の夫が鎮守府に勤めているというつながりもあって、TBSドラマ版『この世界の片隅に』の小道具のミニ展示もある。ちょうどいいことに3月末まで「軍服展」が開かれているので見ていくことにしよう。
 
  目玉は明治時代に呉鎮守府の司令長官(海軍中将)が身につけていた「大礼服」である。新年祝いや叙勲式など、天皇隣席の行事に参加するときの装いで、軍服らしい機能性はない。金ピカの肩飾りに加えて襟や袖には太い金線があしらわれている。これにナポレオンみたいな礼帽とサーベルを携えるのが、もっとも格式の高い場でのスタイルという。ひとことでいえば豪華絢爛、それでいて武人らしい勇壮さもあってカッコいい。ただ、やはり時代のせいか生地のボリューム感に乏しく、全体的にペラっとした印象を受ける。
 
  海軍では「海軍服制」というルールがあり、少尉以上の「将士」には、公式行事用・通常勤務用の2タイプの軍服が用意されていた。海軍といえば、映画でよく見る白の上下に軍刀を携えた恰好をイメージするが、あれは昭和になってから登場するスタイルらしい。
 
  資料館の隣にある司令長官の官舎にも入ってみた。木造の平屋建てで、1905年(明治38年)の資料を基に復元されている。内部は生活空間の和室と公的な仕事をする洋室とに分かれており、畳張りの茶の間があると思ったら、絨毯張りにソファーが置かれた応接間に続いていたりと、かなりトリッキーな作りだ。
 
  食堂には「海軍艦上午餐会」の献立が再現されている。つまり軍艦にゲストが来たときの”おもてなしランチ”だ。ホース・ラディッシュをそえたローストビーフ、サーモンと野菜のテリーヌなど、いまどき結婚式くらいでしかお目にかからないような超よそ行きなメニューがならんでいる。外国の要人と会うことも多い海軍では、テーブルマナーなども教育されていたと聞いたことがあるけれど、それも納得の光景だった。
 
  将校たちの最高級の礼服を鑑賞し、司令長官の住んだ家から呉の街を見下ろすのは、偉くなったようで気分がいい。が、だいぶワークウェアの旅という趣旨から外れてしまっている気もする……。もっとこう、油にまみれた機関士のウェアとか、そういうのを扱ってこそ「まいど屋」ではないのか?
 
  というわけで、次は現代に活躍する海のファイターたち――海上自衛隊のウェアを見に行こう。
 
  ●気分はもうサブマリナー
 
  港へ続く道路には「自衛官募集」のポスターがあちこちにあり、信号が変わるのを待っていたらいつの間にか隣に自衛官がいる。呉というのは誇張抜きに「海自の街」である。さらに、その極め付きといえるのが、続いて訪れた海上自衛隊呉史料館(通称:てつのくじら館)だろう。ここには、なんと海上自衛隊で使われていた全長76mの潜水艦「あきしお」が、そのまま屋外保存されているのだ。
 
  話には聞いていたものの、実際に近づいてみると「うわぁ」と声が漏れる。デカすぎて写真に収まらない。いや、それよりも道のすぐそばにこういうのがある景観が異常すぎて、現実味がなくなってくる。過去に進水式やドック入りなどで、潜水艦を見たことはあるけれど、赤くペイントされた潜水艦の「腹」を下からのぞいたのは初めてだ。
 
  道を挟んだ向かいには「大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)」がある。この人気施設と比べると、てつのくじら館の観光客は少ない。そのぶん落ち着いて見学できるので、のんびりしたい人におすすめである
 
  館内に入ると、いきなり「掃海」の説明が始まった。掃海とは機雷を取り除くことで、要するに「海の地雷」の撤去である。あまりに力を入れた展示と解説に、「そんなに掃海に興味ある人っている? もっとイージス艦とかの話の方が……」と思う。ところが、これはとんでもない間違いだった。じつはこの掃海こそが海自の原点であり、世界に誇れる海自の技術なのだ。
 
  第二次世界大戦中、日本の周辺には大量の機雷が敷設された。それらは戦後も無力化されずに残っており、戦後復興の大きな妨げとなっていた。と、そんな状況で残存機雷をひとつひとつ処理し、安全な海上ルートを切り開いたのが旧海軍の軍人たちだったのだ。彼らの掃海技術は海上自衛隊に引き継がれ、1990年(平成2年)に勃発した湾岸戦争では、初の海外任務として掃海を実施。ひとりの犠牲者も出すことなく作戦を完了させた。……と、長々と書いてしまうくらい「海自の掃海」の話はすばらしいので、ぜひ見に行ってみてほしい。
 
  機雷除去に使う特殊なボート、機関砲などは実物に触ることができるほか、肝心の(?)ユニフォームの展示も、そこそこ充実している。艦上勤務で救命胴衣の下に身につける青いウェアはほぼ作業服と同じ。ダイバーの装備はパッと見たところ特に変わったところはないようだけれど、磁力や音に反応する機雷のことを考えてボンベは非磁性で音の発生も抑える仕組みになっている。軍事用だけあってハイスペックなのだ。ほかに特殊なウェアとしては、潜水艦に不測の事態が起きたとき、ハッチから海中に出ていくるための「脱出服」なんてものもあったけれど、マニアックすぎるので、まあ、このあたりにしておこう。
 
  潜水艦「あきしお」の内部にも入ることができた。潜望鏡、魚雷、そしてレーダーやソナーなどさまざまな計器が並んだ艦内は、男心にグッとくるものがある。とはいえ、手も広げられないほど狭い通路に3段ベッドの寝室など、艦内勤務は想像していたよりはるかにキツそう。ただひとつ、うらやましいなと思ったのは食事くらいである。
 
  海自で艦上勤務をしていたというガイドさんに、実際のところを聞いてみた。
 
  「集団生活ですから我慢しなきゃいけないこともたくさんありますけど、食事だけはどの艦もおいしかったですよ。やっぱり士気に関わりますからね~」
 
  メシがマズかったら組織のパフォーマンスも落ちる。人間にとって「食」がいかに大切か、よくわかる話である。
 
  ●江田島は海軍の聖地だった!
 
  さて、軍服めぐりの旅もいよいよ締めくくりに入ろう。ラストを飾るのは、江田島にある海上自衛隊・第1術科学校。1888年(明治21年)に東京から移転してきた海軍兵学校である。いまも自衛隊の教育や訓練が行われているため、見学は申込制となっている。
 
  呉の中央桟橋ターミナルから高速船で20分、さらにバスを乗り継いで10分ほどで術科学校に到着。門で受付を済ませ、売店や土産物屋がある待合所で待っているとガイドさんが来てくれた。旧海軍兵学校、見学ツアーの始まりである。
 
  おおまかに校内の説明を受けたあと、教育参考館の中だけ自由見学となった。ここは海軍の歴史と伝統を学ぶための施設で、特攻隊の遺品や遺書などもあるので写真撮影やサンダルなどのラフな格好での入館は禁止である。ウェブサイトのどこを見ても「お気軽にお越しください」という雰囲気はないのであまり期待していなかったが、展示内容はこれ以上ないほど充実していた。海軍に関する展示施設としては日本一だろう。
 
  なんせ、正面の大階段を上るといきなり現れるのが「東郷元帥遺髪室」である。日露戦争時の連合艦隊司令長官で、ロシアのバルチック艦隊を打ち破った「世界のトーゴー」だ。ここでは、東郷の遺髪だけでなくイギリスの大提督ネルソンの遺髪も保管されている。残念ながら実物を目にすることはできなかったが、海軍の伝統の重みは十分に感じ取ることができた……ような気がする。
 
  軍服や装備といった貴重なものもたくさん見ることができるけれど、やはりこの施設のメインは「海軍の歴史」だろう。勝海舟の書に江戸時代の兵法書『闘戦経』といった資料から日清・日露の戦争、第一次世界大戦後の軍縮時代、そして日中戦争から太平洋戦争へ。たくさんの資料が海軍の始まりから終わりまでを叙事詩のごとく語り上げる。ミリタリーファンにとって最高の空間である。
 
  ところが、「海軍かっこいい!」という当初のテンションは、日中戦争あたりから落ちはじめ、戦局打開のため「特攻」が行われるようになると気が滅入って見ていられなくなってくる。歴史学では「日本はどこで間違ったのか」というテーマがあるけれど、その境目を判断するのは極めて難しいことがよくわかる。
 
    ☆
 
  術科学校をあとにした編集部は、江田島から高速船で広島港に向かい、路面電車で広島市街に入った。呉から江田島を経て、広島の街へ――。偶然にも敗戦をなぞるようなルートをたどったせいか、街の明かりが少し眩しく感じた。
 
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潜水艦のコクピットにも入れる
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