【警察消防編】漲る覚悟! 街を守るファイターの制服image_maidoya3
さて、いよいよワークウェアの旅も最終日となった。最後のテーマは「警察・消防」である。
 
  お巡りさんや消防士はなにかとよく見るし、子供のころに制服を着せてもらってパトカーや消防車の前で写真を撮った記憶のある人も多いだろう。親しみやすさと頼もしさを併せ持った、街を守るファイターたちのウェアである。
 
  警察は明治の初めにフランスの制度をモデルに作り上げられたもので、消防は、江戸時代の「火消し」がルーツだ。両者とも、首都を守るために始まった仕組みだから、それらに関わる情報もやはり政府発足の地、東京に集まっている。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉もあるように、東京は警察と消防の街であり、その歴史を調べることは、とりもなおさず明治から江戸へと時代へさかのぼることを意味するのだ。
 
  では、さっそく江戸や東京を守ってきた先人たちの姿を追ってみることにしよう。
 

警察消防編
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現場を調べる捜査官のウェア
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寿司は職人のファストフードだった
●警察の原点は薩摩にあり
 
  まずは東京駅から歩いて警察博物館へ向かった。いつも人の多い銀座の街も、平日の午前中は落ち着いている。交差点によく警察官が立っているのはオリンピックが近いからだろうか。よく考えてみれば、これだけ人がいるのに街が整然としているのはすごいことかもしれない。
 
  警察博物館は2017年にリニューアルしており、エンターテイメント性の高い施設になったことは噂に聞いていた。10年ほど前に行ったときは、展示の大半が警察の歴史で、「西南の役では、警視庁から選抜された抜刀隊が活躍した」といった硬い話ばかりだった記憶がある。
 
  と、そんなことを思い出しながら入館すると、ロビーにはパトカーをはじめ、白バイやヘリコプターの実物が並び、専用の記念写真スペースまであった。朝から幼児連れの客も次々とやってきていて、リニューアルが成功していることがうかがえる。
 
  展示は警察の成り立ちから始まった。しょっぱなを飾るのは初代警視総監・川路利良の制服である。ほとんど軍服のようなデザインだが、やや柔和でエレガントな雰囲気を持つのはフランスの警察をお手本にしたからだろうか。これといって目立つ要素はない制服だが、じつはこの主こそ、日本における警察制度の創始者なのだ。
 
  新政府が発足して間もないころ、東京の治安維持は軍が担っていた。ところが各藩から選ばれた藩兵はまったく統率に欠けており、どっちが暴徒かわからないほどだったという。そんな混乱の時代に、治安維持は軍ではなく「警察」が行うべきだと考え、警察制度の実現に力を注いだのが元薩摩藩士の川路だ。
 
  彼が書き残した警察官の心得「警察主眼」には、こんな言葉がある。現代語訳したうえで紹介しておこう。
 
  「政府が父で人民が子供とすれば、警察官とはその子守役だ。だからどんなにひどい扱いを受けても我慢し、人々にはいつでも親切に、正しい態度で接さねばならない」
 
  つまり、武力や権力ではなく人々の役に立つことで信頼を勝ち取れ、と。川路は禁門の変や戊辰戦争で活躍したバリバリの軍人でありながら、「子守役」を語れるくらいの優しさもあった。いくら不祥事があっても警察のイメージがそこまで悪くならないのは、このような規範意識が今も底流に流れているからなのだろう。
 
  続いて、川路の時代から始まる歴代の制服を見ていくと、敗戦が大きな転換点になっていることがわかる。GHQの改革によって初めて女性警察官が誕生し、装備においてもサーベルが廃止。民主化を機に制服は一気にマイルドになった。これ以降、何度か更新しながらデザインの全国統一を済ませ、1994年には現在の制服となっている。
 
  驚いたのは制服のバリエーションの豊かさだ。警察というと「交番のお巡りさん」の格好ばかり想像してしまうけれど、じつは軍服にも引けを取らないほどの種類があるのだ。
 
  通常の制服に加えて、鑑識・航空・災害・山岳・水難・機動隊・白バイと各専門に応じたウェアがあるほか、刑事や要人警護は普通のスーツを着る。仕事紹介コーナーに登場した白バイ隊員は「仕事でうれしいのは、この明るいブルーの制服を着られること」と語っていた。たしかに、あんな変身ヒーローみたいな恰好で働ける職場なんて、ほかないだろう。
 
  警察博物館は、ちびっ子がはしゃぎまわるのも納得の制服ワールドだった。
 
  ●職人が江戸を作った
 
  続いて、編集部は両国の江戸東京博物館へ向かった。東京観光の定番コースだけあって、平日なのに学生や外国人でいっぱいだ。館内は江戸ゾーンと東京ゾーンに分かれており、普通に見ていくと3時間くらいかかりそうなので、ここは「江戸の庶民のくらし」に絞ることにしよう。
 
  さっそく現れたのは江戸時代の長屋である。子供に読み書きを教えている寺子屋の先生の隣は大工の家で、その隣が指物師の家――。と、こういうのが典型的な庶民のくらしだったという。昼間だから大工は外出しており、指物師は家で仕事をしている。このへんのリアリティもいい。
 
  江戸の街の特徴はひとり暮らしの男が多いことだという。とくに初期の江戸は、都市建設のため、たくさんの職人を必要とした。さらに参勤交代制度で、江戸に単身赴任している地方の武士も多かったから、江戸はまさに「男だらけ」だったのだ。1718年(享保3年)の人口調査では、男女比は2:1と男が倍近くとなっている。
 
  仕事はいくらでもあるから、建設系の職人がどんどん集まってくる。忙しい職人は食事をさっさと済ませたいから、寿司や蕎麦といったファストフードの屋台が盛んになる。働けばカネはどんどん入ってくるから宵越しのカネも要らず、みんな粋で気前がいい――。と、このような状況が続くうちに、「てやんでぇ、あたぼうよ!」な世界になっていったというから、冗談みたいな話である。
 
  威勢がよくて気が短い職人たちは、一方で自分の仕事を愛していた。特に、大工・左官・鳶の職人は「華の三職」と呼ばれる花形であり、男からは仰ぎ見られ、女からはモテモテだったという。当然、一人前になるためには厳しい修業があったわけだが、だからこそ職人は敬意をもたれるようになり、そんな環境が己の仕事に自信を持つ「職人気質」を育む土壌となった。
 
  なにかと湿っぽい現代からすると、カラッと明るい江戸の職人世界はかなりうらやましい。
 
  では、なぜ江戸では、職人はどんなにたくさんいても仕事がなくならなかったのか? その秘密は、次の「消防」の歴史で明らかにしていこう。
 
  ●「鳶」こそが江戸の主役!
 
  最後に尋ねたのは四谷3丁目にある消防博物館である。結論から言うと、この施設こそ今回の東京ワークウェアの旅で最大のヒットだった。警察博物館は撮影不可が多かったが、こちらはすべてOK。しかも江戸の初期から現代までの消防ウェアがずらりそろっている。少々古臭い雰囲気ではあるけれど、展示の充実度は群を抜いている。編集部のイチオシだ。
 
  ここでは現代につながる消防の歴史を学べる。ただし歴史といっても、難しいことはなにもない。火事が相次いだ江戸を守るため、幕府はまず大名や旗本を使って消防組織を作り(武家消防)、さらに1718年(享保3年)には、町人たちに自治消防を行わせることで防災活動を強化。このとき生まれた「町火消」が、江戸の消防活動の中心となっていった――。とこれだけ知っていれば大丈夫だ。ここ消防博物館には、そのとき発足した「いろは」48組の町火消の纏(まとい)がすべてそろっている。
 
  江戸の消火活動は「破壊消防」だった。現在のような放水消火ではなく、火災現場の周囲の建物を壊して延焼を食い止め、「燃え草」をなくすことで鎮火していたのである。火消しは、現場の屋根の上に登り、纏を振って自ら目印となる。そうすることで「ここで火を食い止める!」という強い意思を示し、チームを鼓舞したという。
 
  驚くべきことに、町火消しのほとんどは「鳶」の職人だった。建物を壊すには構造を知っていなければならず、屋根の上に登っての作業も不可欠だからだ。
 
  つまり「鳶=消防士」である。
 
  火事の知らせが入ると鳶の職人はわれ先にと現場に駆け付け、半纏の上から水を浴び、解体道具を携えて建物を壊していく。みんなの憧れである職人の華が、命の危険も顧みず火事に立ち向かっていくわけだから、人気が出ないはずがない。町火消は一種のアイドルみたいなものだったらしく、防火半纏から入墨をのぞかせる粋な姿は、当時のブロマイドと言える浮世絵の題材にもなっている。
 
  火消しの人数は、多い時期には1万人を上回っていたこともあったという。18世紀初頭の江戸の人口は約100万人と推定されているから、江戸に住む人の100人に1人は火消しだったことになる。もし現代で100人に1人が消防団だったら、と想像してみてほしい。
 
  というわけで、さっきの疑問の答はもうお分かりだろう。
  Q:なぜ職人は仕事がいくらでもあったのか?
  A:火事が非常にたくさんあったから
  三大大火と呼ばれる明暦・明和・文化の大火をはじめ、江戸の街は大火事が繰り返し起こっている。そのため街の成長が落ち着いても建設需要はなくならなかった。
 
  鳶や大工といった建設系の職人が建物を作り、彼らが建物を火事をから守る。それでも燃えてしまった建物は職人が再建し、また職人たちが消防活動で守って……とイメージすればすごい話である。要は、街の創造と破壊というサイクルのカギが職人だったわけで、職人を中心に世界が回っていたともいえる。「火事と喧嘩は江戸の華」の言葉は、伊達ではなかったのだ。
 
  消防は、明治時代になるとポンプ車による放水消火が主流となり、消防士の装いは現在みられるような消防服となっていった。ただ見た目は変わっても、人命を救うという使命は同じだし、人々から頼りにされるのも変わりない。古今東西どこでも「火消し」はヒーローなのだ。
 
    ☆
 
  出口の近くに、消防服を着て写真を撮れるコーナーがあった。子供サイズだけかと思ったら、大人用のサイズもあるのに気付いた。
 
  これは着るしかない、と子供がハケるタイミングを見計らって、憧れのオレンジ制服に腕を通す。消防のエリート、レスキュー隊のウェアは見た目に反してズッシリと重かった。
 
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明治初期の火消しの装束
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レスキュー隊の活動服も着用できる