「GoToトラベル」を使って普段できないような旅を――。と、続いて編集部が白羽の矢を立てたのは石川県の加賀温泉郷。金沢には何度か行ったことがあるので「もういいかな」と思っていたが、よく考えればこのエリア(金沢市と福井市の真ん中あたり)には、訪れたことがない。それもそのはず、ここ加賀市は日本海側から岐阜県へ続く山側まで温泉だらけなのだ。編集長は10年くらい前まで「温泉に入るだけなんて退屈!」と思っていたから(若かったんですね♪)、加賀温泉の情報はいっさい目に入ってこなかった。ところが今は違う。休みの度に日帰り温泉に行って半日ほど過ごし、「いつか山奥の温泉でひと月くらいかけてゆっくり湯治したいなぁ~」なんてことを口走っているわけで、心身の中年化とともにすっかり温泉ファンになってしまった。しかも、この温泉郷、加賀百万石というだけあって雰囲気もけっこう派手。「羽を伸ばす」と辞書で引いたら出てきそうな感じだ。良い、良すぎる。だがちょっと待て、ひとりでこんな華やかな所に泊まってもいいのだろうか? もっとひなびた渋い温泉の方が、と言いつつ手は勝手に豪華絢爛な旅館のウェブサイトを次々とブックマークしていく。……ふう、こうなってしまったらもはや潔く認ねばなるまい。最高の旅館に泊まりたい! 最高の温泉に入りたい! 最高の食事をしたい! ただし旅の動機は私欲ではない。旅の魅力を伝え観光業を応援するという目的は、片時も忘れなかった。間違いなく、いやたぶん。
加賀温泉
苔が美しい「べにや無何有」の庭園
山海の恵みを丁寧に料理
●華やぐ温泉郷
加賀温泉駅の観光案内所は透明シートで手元まで遮られ、ものものしい雰囲気だった。1時間ほど前までいた金沢はほぼ平常運転だったから、あまりのギャップに驚く。駅の近くを散策してみようかと思ったが、小さなショッピングセンターしかないので、さっさと宿に向かうことにする。旅館に電話し、待合所でテレビを見ているとタクシー運転手が旅館のパネルを掲げながら入ってきた。
「お客さんおひとり? てっきりカップルだと思ってたよ~」
ああ、やっぱりそういう場所なのか。待合所でも若い男女連れが多いなと思っていた。ちなみに加賀温泉郷は、日本海側から片山津温泉、山代温泉、山中温泉と3つのエリアに分かれており、かつては日本屈指の色っぽい温泉街だったらしい。だが今は、そんないかがわしい空気はまったくない。デートに限らず女性グループでも盛り上がりそうな、情感的で艶やかな観光スポットだ。ちなみに今回、編集部が向かうのは真ん中の山代温泉である。
バブルの遺物らしい巨大観音像が見下ろす街を、タクシーはすいすいと山に向かっていく。
「最近このへんのスナックでもコロナの患者が出たんだよ。お年寄りも多いからみんなすごい警戒してるし、病院なんてもう厳戒態勢ですよ。こないだは久々に飲み屋さんまで呼ばれて送迎したけど、やっぱりまだまだ観光客は少ない。温泉街の夜の店なんかも開いてるのかな? 今年は祭りもなくなったし、かなり寂しいねぇ……」
話しているうちにクルマは宿に着いた。山代温泉街を抱く里山に建つ「べにや無何有」は、シックで和モダンな雰囲気が魅力。オーナーと建築家が徹底的にこだわって、普通の温泉旅館を唯一無二の宿に生まれ変わらせた。広々としたロビーに入ると、よく手入れされた庭を背景にした息を飲むような空間が広がっている。地元産のリンゴジュースを持ってきてくれた仲居さんは、ゆったりとした白のブラウスと黒スカートに足袋を合わせた独特のスタイル。ホテルの「サービス」と旅館の「気遣い」を体現しているようで、動き回る姿も優雅だ。デザイナーズチェアに体を預けていると、まるで「和」を意識した海外リゾートのようで、さっきまで北陸本線の待合室でNHKニュースを見ていたのが嘘みたいに感じる。えーと、こういうのなんて言うんだっけ……、ああ「別天地」か。
部屋数は全16室。一夜を過ごす和室は、畳の間から竹敷きの広縁、月見台へと続くシンプルな間取りだ。内装の設えや床の間の装飾も「素晴らしい」の一言なのだけれど、特筆すべきは余計なものを取り除いた「何もない空間」であること。部屋には温泉を引き込んだ内湯に洗面台もあれば、テレビに冷蔵庫といった設備もある。しかし、そういったものはいっさい視界に入らないように作られているのだ。何気なく戸棚を空けてみるとテレビの画面が出てきた。リモコンを取ろうとしたがやめた。この部屋にワイドショーなんて流したらすべて台無しになってしまう。
さまざまな工夫を凝らしていながらも、これ見よがしなところがない。「べにや無何有」の客室は、まるで茶室のようだ。
●自然と健康の宿
浴衣に着替えて、館内を見物してみる。すぐ気が付いたのは「音」がないことだ。BGMもなければ、ゲーム機や卓球台のようなものもなく、聞こえるのはただ自分のスリッパがパタパタする音だけ。それなのに心細い気分にならないのは、雑木林のようにうっそうとした庭のおかげだろう。この日は雨。盛夏を越えてもりもりと茂った緑に雨粒が当たって、細かく揺れる。かなりの雨量なのに不思議と水の音はしない。そんなどうということもない光景が、自然のうちに目にする人の気を紛らわせてくれる。
ロビーの隅には小さな図書室があった。普段はここでお茶を点てたりしているようだが、今はコロナの影響で行われていない。ほかにも平常時には早朝ヨガなどの健康プログラムも行っているらしい。ここ山代は、平安時代から僧侶が温泉と薬草を使って人々を癒す「薬師山」として信仰を集めていた。その歴史を受け継いで、この宿でも薬草を使った心身トリートメントなどのメニューがたくさん用意されているのだ。もちろんこのようなエステを頼まなくても、温泉水を使ったスキンケア化粧品など、アメニティーも充実しているから女性ウケは間違いない。
大浴場に行ってみると先客がいた。まだ15時台だから風呂はサッと済ませて……、と思っていたのだが、常連らしい人がゆったりと過ごしているのを見て考えを改める。先の楽しみではなく、今この瞬間を謳歌しようじゃないか! ヒノキの露天風呂に浸かって足を投げ出し、関節を伸ばす。と視線を上げれば、竹林の間に楓の葉がそよいでいる。木々の枝ぶりとそこからこぼれ落ちる日差しも相まって、文句の付けようがない景観だ。だんだんと森の中にいるような気分がして、ここが風呂であるのを忘れそうになる。「目を奪われる」というのは、何か新奇なものや派手なものを見たときだけではないのだ。
再びロビーに戻り、雨が上がった隙を突いて庭に出てみる。まぶしいほどの鮮やかな緑を作りあげた立役者は、意外にも地面を覆い尽くす苔だった。抹茶をまぶしたように、苔が通路や飛び石を除いたあらゆる場所を彩り、木漏れ日をエメラルド色に輝かせている。石橋をまるごと包み込むほどフカフカに育った苔は、思わず掌をうずめたくなるほどだ。
庭の状態について仲居さんが語ってくれた。
「お庭の苔、見事ですよね。でも、毎年ここまですごいわけではなくて、この前(2019年末)の冬が記録的な暖かさで、あまり雪が積もらなかったおかげなんです。冬に庭の除雪作業をすると、気を付けていても苔はけっこう削れちゃうんですよ。今年はほとんど除雪をしなかったので、手付かずのまま元気に育ってくれました。庭を目当てにいらっしゃるお客さんは、やっぱり紅葉シーズンが多いんですけど、今みたいに夏が終わって秋が深まる前もステキですよ」
ロビーや図書室に加えてこんな庭があるなら、もはや旅館から一歩も出なくていい、というわけだ。
●これからがチャンス?
夕食は、見晴らしのいいテラスに面したダイニングで。ロビーや庭のテイストとは打って変わって、こちらはホテル最上階のレストランのようなラグジュアリーな雰囲気だ。食前酒の「天狗舞」を口に含みながら、シェフが厳選したという加賀の山々や日本海の食材について思いを巡らせる。至福の時間だ。
前菜を運んできくれた仲居さんが「ワインもよかったらご注文ください。ソムリエもおりますので……」と言う。ソムリエ! おい、加賀の温泉旅館でソムリエだよソムリエ、盆と正月が一緒に来たぁ、とワインの誘惑によろめきそうになったが、本格的に酒を呑みだすと料理のレビューがおろそかになってしまう。ここは大人しく(?)エビスビールにしておこう。
このダイニングでは、仲居さんに加えてスーツ姿の男性スタッフも数人いる。このように、ところどころホテル的なサービスをしているのは、海外からのお客さんが多いから。ごそんじの通り、コロナ前の日本はインバウンドの外国人だらけだったわけだが、ここ「べにや無何有」は特に外国人に人気だったという。「ミシュランガイド」のホテル版ともいうべき「ルレ・エ・シャトー」の厳しい審査をクリアした国内でも数少ない宿からだ。女将さんによると、外国人の家族連れが夫婦と子供で別々に部屋を取って、何日ものんびりするといったケースも多いという。日本人の発想では出てきそうもない、思い切りのいいカネの使い方ではないか。
「毎年、紅葉シーズンが過ぎたら、日本のお客さんがよく息抜きにいらっしゃいます。今年はどうなるんでしょうか……、10月に始まる東京からのGoToに期待したいですね。外国人の方は召し上がらないことも多いんですが、冬の北陸はカニも絶品ですから」
大きな声では言えないが、インバウンド客がいない今は、日本人が人気の旅館を楽しむチャンスなのだろう。外国人の入国禁止で空室のできた宿に日本人が泊まれば経営の助けになるだけでなく、地方が持つ魅力の再発見につながる。長い目で見れば、今回のコロナ禍は国内の観光産業を支える内需の掘り起こしになるかもしれない……。
●山海の恵みを味わう
そんな経済展望は、やってきた料理の前にあっさり消え去った。加賀温泉の名物・温泉卵にウニを載せたものを中心に、アワビ・子持ち鮎・ハタハタ・合鴨・無花果……。山海の恵みが皿の上でショーを繰り広げている。いったい何から味わえばいいのか? みっともないとわかっていても箸の先が小刻みに震えてしまう。
口に運ぶたびに、「あ」と頭の中で声が漏れる。高級品や珍味といってもまったく口にする機会がないわけではない。ところが、トッピングやソースでうまく味に変化が加えられた味は、ことごとくこちらのイメージを覆すのだ。ストライクゾーンを外すかに見えた球が、手元でグンと伸びて真ん中に切り込んでくる。予想は裏切るのに期待は満たしてくれる。恐ろしく凄腕の投手、じゃなかった料理人だ。
続いて刺身が来た。加賀橋立漁港で水揚げされたヒラメにマグロ、キジハタ、そしてイカそうめん。白身魚の淡白さにほどよい鮪の脂、そしてイカの濃厚な旨味が、味の輪郭を際立たせる。ファインダーをのぞきながら望遠レンズを動かすように、自在にピントを合わせられている感じだ。凝った料理の後に簡素な料理が出してくるあたりも、企みが深い。
メインは「のどぐろの炭火焼き」である。アカムツとも呼ばれるこの魚は、近所のスーパーでも干物が売られていて馴染みがある。塩焼きにするとおいしいあの小さい魚だな……と思っていたら、握りこぶしサイズの切り身でやってきた。のどぐろってこんなデカいやつがあったのか。あとで知ったのだが、もともと北陸ではありふれたものだったこの魚は、味の良さから全国的なブームとなり、今や高級魚になっているとのこと。美味しいけど小さい。そんなのどぐろの身をわしっと箸でつかむ、この喜び! 真っ白な身は、上からかけた出汁がしみ込んでふわふわの食感。そこに炭火でパリパリに焼いた皮のコントラストが効いている。濃厚な脂に絞ったスダチがだんだん混ざり込んでいく味の変化も心憎い。
やられた、のどぐろにはやられた……。と、余韻に浸りながらとろろご飯を平らげて、部屋に戻ると「さあ、寝なさい」とばかりに布団が敷いてあった。この特別な夜をもっと楽しみたいけれど健康的な早寝のスタイルも捨てがたい。このまま朝が来なければいいのに……。
翌朝、起きてすぐクマよけのサイレンが鳴る山の中を散歩し、部屋の月見台で日課の筋トレをする。昨日の雨がたっぷりしみ込んだ庭からは湿り気が立ち昇っている。そのむわっとした塊を上空からの乾いた風が薙ぎ払っていく。板葺きの床に寝転がっていると、そんな大気の空気の流れがよくわかる。ここでは腹筋運動ですら気持ちいい。
窓を閉めると、ガラス上に1匹のキリギリスがとまっているのに気づいた。この温泉街を望む里山でずっと命をつむいできた、育ちのいい虫だ。
「また来るからね」
約束は果たされるのだろうか? いや、いつかは再訪することになるだろう。温泉と旅を愛する心があれば、必ずまた、ここにたどり着くはずだ。たとえ何年かかろうと――。
加賀温泉駅の観光案内所は透明シートで手元まで遮られ、ものものしい雰囲気だった。1時間ほど前までいた金沢はほぼ平常運転だったから、あまりのギャップに驚く。駅の近くを散策してみようかと思ったが、小さなショッピングセンターしかないので、さっさと宿に向かうことにする。旅館に電話し、待合所でテレビを見ているとタクシー運転手が旅館のパネルを掲げながら入ってきた。
「お客さんおひとり? てっきりカップルだと思ってたよ~」
ああ、やっぱりそういう場所なのか。待合所でも若い男女連れが多いなと思っていた。ちなみに加賀温泉郷は、日本海側から片山津温泉、山代温泉、山中温泉と3つのエリアに分かれており、かつては日本屈指の色っぽい温泉街だったらしい。だが今は、そんないかがわしい空気はまったくない。デートに限らず女性グループでも盛り上がりそうな、情感的で艶やかな観光スポットだ。ちなみに今回、編集部が向かうのは真ん中の山代温泉である。
バブルの遺物らしい巨大観音像が見下ろす街を、タクシーはすいすいと山に向かっていく。
「最近このへんのスナックでもコロナの患者が出たんだよ。お年寄りも多いからみんなすごい警戒してるし、病院なんてもう厳戒態勢ですよ。こないだは久々に飲み屋さんまで呼ばれて送迎したけど、やっぱりまだまだ観光客は少ない。温泉街の夜の店なんかも開いてるのかな? 今年は祭りもなくなったし、かなり寂しいねぇ……」
話しているうちにクルマは宿に着いた。山代温泉街を抱く里山に建つ「べにや無何有」は、シックで和モダンな雰囲気が魅力。オーナーと建築家が徹底的にこだわって、普通の温泉旅館を唯一無二の宿に生まれ変わらせた。広々としたロビーに入ると、よく手入れされた庭を背景にした息を飲むような空間が広がっている。地元産のリンゴジュースを持ってきてくれた仲居さんは、ゆったりとした白のブラウスと黒スカートに足袋を合わせた独特のスタイル。ホテルの「サービス」と旅館の「気遣い」を体現しているようで、動き回る姿も優雅だ。デザイナーズチェアに体を預けていると、まるで「和」を意識した海外リゾートのようで、さっきまで北陸本線の待合室でNHKニュースを見ていたのが嘘みたいに感じる。えーと、こういうのなんて言うんだっけ……、ああ「別天地」か。
部屋数は全16室。一夜を過ごす和室は、畳の間から竹敷きの広縁、月見台へと続くシンプルな間取りだ。内装の設えや床の間の装飾も「素晴らしい」の一言なのだけれど、特筆すべきは余計なものを取り除いた「何もない空間」であること。部屋には温泉を引き込んだ内湯に洗面台もあれば、テレビに冷蔵庫といった設備もある。しかし、そういったものはいっさい視界に入らないように作られているのだ。何気なく戸棚を空けてみるとテレビの画面が出てきた。リモコンを取ろうとしたがやめた。この部屋にワイドショーなんて流したらすべて台無しになってしまう。
さまざまな工夫を凝らしていながらも、これ見よがしなところがない。「べにや無何有」の客室は、まるで茶室のようだ。
●自然と健康の宿
浴衣に着替えて、館内を見物してみる。すぐ気が付いたのは「音」がないことだ。BGMもなければ、ゲーム機や卓球台のようなものもなく、聞こえるのはただ自分のスリッパがパタパタする音だけ。それなのに心細い気分にならないのは、雑木林のようにうっそうとした庭のおかげだろう。この日は雨。盛夏を越えてもりもりと茂った緑に雨粒が当たって、細かく揺れる。かなりの雨量なのに不思議と水の音はしない。そんなどうということもない光景が、自然のうちに目にする人の気を紛らわせてくれる。
ロビーの隅には小さな図書室があった。普段はここでお茶を点てたりしているようだが、今はコロナの影響で行われていない。ほかにも平常時には早朝ヨガなどの健康プログラムも行っているらしい。ここ山代は、平安時代から僧侶が温泉と薬草を使って人々を癒す「薬師山」として信仰を集めていた。その歴史を受け継いで、この宿でも薬草を使った心身トリートメントなどのメニューがたくさん用意されているのだ。もちろんこのようなエステを頼まなくても、温泉水を使ったスキンケア化粧品など、アメニティーも充実しているから女性ウケは間違いない。
大浴場に行ってみると先客がいた。まだ15時台だから風呂はサッと済ませて……、と思っていたのだが、常連らしい人がゆったりと過ごしているのを見て考えを改める。先の楽しみではなく、今この瞬間を謳歌しようじゃないか! ヒノキの露天風呂に浸かって足を投げ出し、関節を伸ばす。と視線を上げれば、竹林の間に楓の葉がそよいでいる。木々の枝ぶりとそこからこぼれ落ちる日差しも相まって、文句の付けようがない景観だ。だんだんと森の中にいるような気分がして、ここが風呂であるのを忘れそうになる。「目を奪われる」というのは、何か新奇なものや派手なものを見たときだけではないのだ。
再びロビーに戻り、雨が上がった隙を突いて庭に出てみる。まぶしいほどの鮮やかな緑を作りあげた立役者は、意外にも地面を覆い尽くす苔だった。抹茶をまぶしたように、苔が通路や飛び石を除いたあらゆる場所を彩り、木漏れ日をエメラルド色に輝かせている。石橋をまるごと包み込むほどフカフカに育った苔は、思わず掌をうずめたくなるほどだ。
庭の状態について仲居さんが語ってくれた。
「お庭の苔、見事ですよね。でも、毎年ここまですごいわけではなくて、この前(2019年末)の冬が記録的な暖かさで、あまり雪が積もらなかったおかげなんです。冬に庭の除雪作業をすると、気を付けていても苔はけっこう削れちゃうんですよ。今年はほとんど除雪をしなかったので、手付かずのまま元気に育ってくれました。庭を目当てにいらっしゃるお客さんは、やっぱり紅葉シーズンが多いんですけど、今みたいに夏が終わって秋が深まる前もステキですよ」
ロビーや図書室に加えてこんな庭があるなら、もはや旅館から一歩も出なくていい、というわけだ。
●これからがチャンス?
夕食は、見晴らしのいいテラスに面したダイニングで。ロビーや庭のテイストとは打って変わって、こちらはホテル最上階のレストランのようなラグジュアリーな雰囲気だ。食前酒の「天狗舞」を口に含みながら、シェフが厳選したという加賀の山々や日本海の食材について思いを巡らせる。至福の時間だ。
前菜を運んできくれた仲居さんが「ワインもよかったらご注文ください。ソムリエもおりますので……」と言う。ソムリエ! おい、加賀の温泉旅館でソムリエだよソムリエ、盆と正月が一緒に来たぁ、とワインの誘惑によろめきそうになったが、本格的に酒を呑みだすと料理のレビューがおろそかになってしまう。ここは大人しく(?)エビスビールにしておこう。
このダイニングでは、仲居さんに加えてスーツ姿の男性スタッフも数人いる。このように、ところどころホテル的なサービスをしているのは、海外からのお客さんが多いから。ごそんじの通り、コロナ前の日本はインバウンドの外国人だらけだったわけだが、ここ「べにや無何有」は特に外国人に人気だったという。「ミシュランガイド」のホテル版ともいうべき「ルレ・エ・シャトー」の厳しい審査をクリアした国内でも数少ない宿からだ。女将さんによると、外国人の家族連れが夫婦と子供で別々に部屋を取って、何日ものんびりするといったケースも多いという。日本人の発想では出てきそうもない、思い切りのいいカネの使い方ではないか。
「毎年、紅葉シーズンが過ぎたら、日本のお客さんがよく息抜きにいらっしゃいます。今年はどうなるんでしょうか……、10月に始まる東京からのGoToに期待したいですね。外国人の方は召し上がらないことも多いんですが、冬の北陸はカニも絶品ですから」
大きな声では言えないが、インバウンド客がいない今は、日本人が人気の旅館を楽しむチャンスなのだろう。外国人の入国禁止で空室のできた宿に日本人が泊まれば経営の助けになるだけでなく、地方が持つ魅力の再発見につながる。長い目で見れば、今回のコロナ禍は国内の観光産業を支える内需の掘り起こしになるかもしれない……。
●山海の恵みを味わう
そんな経済展望は、やってきた料理の前にあっさり消え去った。加賀温泉の名物・温泉卵にウニを載せたものを中心に、アワビ・子持ち鮎・ハタハタ・合鴨・無花果……。山海の恵みが皿の上でショーを繰り広げている。いったい何から味わえばいいのか? みっともないとわかっていても箸の先が小刻みに震えてしまう。
口に運ぶたびに、「あ」と頭の中で声が漏れる。高級品や珍味といってもまったく口にする機会がないわけではない。ところが、トッピングやソースでうまく味に変化が加えられた味は、ことごとくこちらのイメージを覆すのだ。ストライクゾーンを外すかに見えた球が、手元でグンと伸びて真ん中に切り込んでくる。予想は裏切るのに期待は満たしてくれる。恐ろしく凄腕の投手、じゃなかった料理人だ。
続いて刺身が来た。加賀橋立漁港で水揚げされたヒラメにマグロ、キジハタ、そしてイカそうめん。白身魚の淡白さにほどよい鮪の脂、そしてイカの濃厚な旨味が、味の輪郭を際立たせる。ファインダーをのぞきながら望遠レンズを動かすように、自在にピントを合わせられている感じだ。凝った料理の後に簡素な料理が出してくるあたりも、企みが深い。
メインは「のどぐろの炭火焼き」である。アカムツとも呼ばれるこの魚は、近所のスーパーでも干物が売られていて馴染みがある。塩焼きにするとおいしいあの小さい魚だな……と思っていたら、握りこぶしサイズの切り身でやってきた。のどぐろってこんなデカいやつがあったのか。あとで知ったのだが、もともと北陸ではありふれたものだったこの魚は、味の良さから全国的なブームとなり、今や高級魚になっているとのこと。美味しいけど小さい。そんなのどぐろの身をわしっと箸でつかむ、この喜び! 真っ白な身は、上からかけた出汁がしみ込んでふわふわの食感。そこに炭火でパリパリに焼いた皮のコントラストが効いている。濃厚な脂に絞ったスダチがだんだん混ざり込んでいく味の変化も心憎い。
やられた、のどぐろにはやられた……。と、余韻に浸りながらとろろご飯を平らげて、部屋に戻ると「さあ、寝なさい」とばかりに布団が敷いてあった。この特別な夜をもっと楽しみたいけれど健康的な早寝のスタイルも捨てがたい。このまま朝が来なければいいのに……。
翌朝、起きてすぐクマよけのサイレンが鳴る山の中を散歩し、部屋の月見台で日課の筋トレをする。昨日の雨がたっぷりしみ込んだ庭からは湿り気が立ち昇っている。そのむわっとした塊を上空からの乾いた風が薙ぎ払っていく。板葺きの床に寝転がっていると、そんな大気の空気の流れがよくわかる。ここでは腹筋運動ですら気持ちいい。
窓を閉めると、ガラス上に1匹のキリギリスがとまっているのに気づいた。この温泉街を望む里山でずっと命をつむいできた、育ちのいい虫だ。
「また来るからね」
約束は果たされるのだろうか? いや、いつかは再訪することになるだろう。温泉と旅を愛する心があれば、必ずまた、ここにたどり着くはずだ。たとえ何年かかろうと――。
朝を彩るフレッシュジュース
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山代の自然に抱かれてリラックス
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