まいど通信


        

新年あけましておめでとうございます! 編集長の奥野です。長い旅から帰ってはや1週間。ようやく体が持ち直したものの、今でも東海道を歩いている夢を見ます。この編集後記で言いたいことは山ほどあるのですが、まずそもそもなぜこのような無茶な企画が生まれたのか、イチから説明させてください。

●迷走の予兆

もともとは例年のように「新年特集」としてインタビューを行うはずでした。今年は「海外にチャレンジする料理人」として、ミラノに飛んで密着取材するという大型プランが立ち上がったので、大急ぎでパスポートを探し滞在計画を立て、イタリア旅行のガイドブックを買いに走っていた--。そこに飛び込んできたのが例の新型コロナ「オミクロン株」出現のニュースです。

よりによってこのタイミングで変異株とは……。しかもせっかく打ったワクチンが効かないとか!?

とりあえず本誌のオーナーである社長、田中氏に電話しました。その結果「どう考えても海外は不可能」との結論に。では、どうするのか? 今から誰かにアポを取っている時間はないし、年末進行だから〆切も前倒しになる。また新年号なのでそれなりの大型企画じゃないと格好がつかない。そんなことを伝えると田中氏は「うーん……、1日だけ考えさせて」と言いました。

翌日、田中氏からメールが届きました。かなりの違和感です。おかしい、あの人は基本的に何でも電話で伝えてくるのにメールなんて。昨日も「あした電話する」と言っていたような気がするが……。おそるおそるメールに添付されていたWORDファイルを開くと、次のような文書が出てきました。

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皆さんは新幹線の中で涙を流したことがありますか?僕はある。それも、つい、昨日のことだ。東京駅を出た直後、車内に流れてきたいい日旅立ちのメロディーを聴いて、僕は泣いた。理由などなく、涙が後から後から、とめどなく流れてきた。いや、きっと理由はあったんだ。僕は隣の乗客に気付かれぬように、手の甲で何度も涙をぬぐった。それは心地よい涙だった。僕は窓の外の変哲もない風景が次々と後ろに飛び去って行くのを見つめ続けた。やがて列車が新横浜を過ぎ、小田原にさしかかった頃、僕は眠りに落ちた。僕の体は、僕が眠っているうちに新大阪まで静かに運ばれていった。僕は大阪に帰ってきた。それが、つい昨日のことだ。

約束の原稿は昨日の夕方、最終校正を済ませてまいど屋に渡してある。恐らく彼らはそれを直ちにシステムにアップしたはずだ。元旦になると、僕の原稿は自動的に表示に切り替えられる。全ては美しく終わっているというのに、僕はどうしてこんな文章を書いているのだろう?きっと僕は今、月刊まいど屋やその読者のためにではなく、僕自身のためにこの文章を書いている。何かに対して、何かの区切りをつけるために。意味があるのかどうかはわからない。それでも、書き終わったら、まいど屋にメールしてみるつもりだ。多分、先方では使い道に困ってしまうのだろうけれど。
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●やるしかない

なんだなんだ、なんなんだ。どうやら企画のコンセプト的な文章のようだけど、いったい何をやらせようというのか。ライターとしての本能が「これ以上、読まないほうがいい」と警告を発します。しかし、スケジュールを考えると1日でも早く企画を固める必要がある--。意を決して最後の段落に目を落としました。

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今月号の企画がまとまったのは、12月の第2週になってからである。というのも、予定していた本来のネタが、例のオミクロン株のおかげで飛んでしまったからだ。取材のアポ取りや執筆時間を考えると、これは異例の緊急事態だった。僕とまいど屋の担当者は、予想外の事態に途方に暮れ、結論の出ない電話を何度も掛けあっては時間を無駄にし続けた。そしてもう身動きが取れなくなりそうなギリギリの段階に来たとき、あの電話がかかってきたのだ。取りあえず、年末の挨拶がしたい、とまいど屋の担当氏は云った。その悠長な提案に真意を測りかねていると、相手はとにかく来てくれと強い調子で僕に命令した。わかりました、と僕は云った。だけど交通費は出さない、と彼は云った。とにかく明日、できれば朝一番に出発してください。でないと、もう間に合わないから。来月号の企画は、「徒歩で東海道を歩き通した件」。だから交通費はかかりません。担当氏はそう言って電話を切った。僕は回線が切れたことを示す携帯のディスプレイを見て絶句した。そうして、僕は本当に、京都から埼玉県のまいど屋まで、東海道を歩き通すことになった。
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うん、東海道? なんだ、在来線で東京まで来いって話か……。いや待てよ、徒歩? 歩き通す!?

ちょうど目を通したタイミングで電話がかかってきました。

「見てくれた? いや、電話で伝えてもよかったんだけど、その場で断られちゃうと思って……」
「……」
「東海道って通しで歩けるらしいよ、ネットで見た」
「そりゃあ、海の底でもなけりゃ歩けるでしょう。でも……」
「タイトルは『東海道を歩き通した件』ね。ネット記事らしくていいでしょ?」
「はぁ……。で、何日くらいかかるんですか?」
「2週間くらいかな? まあ、宿代はかかるけど、それは取材費でOK」
「う、うーん……、それって普通の人間にできるんですかね?」
「大学生みたいな人がやってた。ネットで見れるよ」
「まあ……、体力的な話は置いておいて、それって面白いのかな、と。ほとんど国道歩きでしょう?」
「いや、そうでもないらしいよ。旧道の方をたどっていけば」

問答を続けながらも、ガシガシと外堀が埋まっていくのを感じます。No way out--。80年前、東条英機首相が対米開戦を決めたときも、こういう心境だったのでしょう。決意というか、諦念というか。

幸か不幸か、年明けまでアポはありません。ノートパソコンさえ持っていけば、仕事はなんとかなるかもしれない。それに、こんな“無茶振り”でもされない限り「東海道を歩き通す」なんてことは絶対にやろうとは思わないでしょう。何事も勢いが大事です。「いつか機会があれば」「そのうち時間ができたら」などと考えていたら、大きなチャレンジはできない。それに年齢的にも「体を張る取材」ができるリミットは近づいています。

この電話があったのが12月4日のこと。そして12月6日の朝9時、私は、バックパックに全身ワーク系の装備で固めたハイカーだか職人だかよくわからない格好で、三条大橋の前に立っていました。

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というわけで、今月も最後までお付き合いいただきありがとうございました。次号の『月刊まいど屋』は『東海道を歩き通した件[後編]』をお送りします。東海道はいよいよ静岡から箱根を越えて関東平野へ。感動のゴールにご期待ください!