【三重から愛知】死の行軍image_maidoya3
難所、鈴鹿峠をあっさり越えたものの、まだまだ先は長い。滋賀県から三重県に入った東海道は亀山で左にカーブし、四日市から桑名へ、伊勢平野を北東に突っ切っていく。そして、木曽川・長良川を渡ってついに名古屋市へとアプローチする。山はない。気候も温暖。都市部だからトイレや食事に困ることもない。さらに「七里の渡し」や焼きハマグリで有名な桑名に、三種の神器「草薙剣」を祀る熱田神宮、織田信長が快挙を成し遂げた桶狭間古戦場など、見どころはてんこ盛り。歴史好きの編集長にとって、言うことなしの楽しい旅に思えるが--。第二部は4日目から6日目までのレポートだ。

三重から愛知
image_maidoya4
旧街道を正確にトレースするとこんな道に
image_maidoya5
桑名「七里の渡し」の跡地
●4日目:12月9日(木)@亀山(三重県亀山市)
 
  昨夜は宿で荷物整理をした。山の寒さ対策に持ってきたダウンジャケットやハクキンカイロをレターパックで自宅に返送。鈴鹿峠も楽勝だったし、今後の天気予報を分析してとんでもない寒さになることはないと判断した。なにより歩いているとほとんど寒さを感じることはない上、距離を稼ぐには体が冷えるほど長い休憩はとっていられない。荷物は少しでも少ないほうがいい。防寒は電熱ベストにウインドブレーカーだけ。非常時には上からカッパを着てしのぐことにしよう。
 
  少し寝坊して9時前スタート。亀山駅前のホテルから名古屋へ向かう在来線が見えた。うっかり「あれに乗れば1、2時間くらいで……」と考えそうになる。そんな雑念を大急ぎで頭から追い出し、坂を登って旧街道に復帰。今日の目的地は「いちおう桑名。ダメなら四日市」である。というのも「亀山-四日市-桑名」は40kmもあるから、きのうも限界突破の強行軍をした身には重すぎる。いっぽう「亀山-四日市」で留めておけば24km。これは2週間での踏破を目標にしている者の1日あたりの距離としては短すぎる。長距離で日程の短縮を図るか、短距離で体を立て直すか……。こう考えつつも、深層心理はもう「四日市でいいか」と言っている。
 
  4日目にもなるとだいぶ長距離歩きのコツが掴めてくる。まず急がないこと。決して焦らず淡々と足を動かし続ける。「自らの足」という鈍行電車に乗り続けるイメージだ。途中下車しなければいつか必ず目的地に到着する。「△時までに○○に着くように」といった具合に目標を設定するとペースが乱れて結果的に疲れるのでやめておく。90分から2時間に一度は休憩をとりたいけれど、もし休憩ゼロでも動き続けられるくらいの「がんばらない速度」を維持する。距離を稼ぐには止まっている時間をなるべく短くするしかない。休息を含めた移動速度が時速4kmとすれば、8時スタート16時ゴールの8時間行動で32km。17時までで36km。休憩を切り詰めればもう少し伸ばせる。
 
  さすがに足には昨日のダメージが残っている。だが、歩き出せば意外と普通に歩けてしまうから不思議だ。むしろ信号などで立ち止まると痛みが全身を遡ってくる。まだ午前中なのに足の耐久ゲージは残り6割といった感じ。亀山から9km先の宿場町「庄野」へ向かっている途中で左足の指に激痛が走る。川の土手に座って靴を脱ぎチェックしてみたものの、特に異変はない。念の為テーピングを巻き直して歩き出す。1kmもしないうちにまた激痛。またチェックするが何もない。また歩き出すと3度目の激痛。チェック。歩き出す。激痛。チェック。歩き出す。激痛……。
 
  靴が合っていないとかテーピングが間違っているとか、いろいろな可能性を検討して、次の結論に至った。原因は「歩きすぎ」である。こんなに歩けばどんな靴を履こうとどんなケアをしようと痛くなるのが正常であり、むしろ何もないほうが異常。足の回復にベストは尽くすけれど「どうにかすれば痛みがなくなる」などといった夢物語はキッパリ捨て去る。こう考えるといくらか楽になった。
 
  庄野を通り抜け、次の宿場町「石薬師」へ入った。このボロボロの足で26km先の桑名にたどり着くのは不可能だ。苦痛を少しでも和らげるべく、ランチは冷たいうどんの大盛りに穴子の天ぷらをつけた。30km以上歩く日なら、悠長に天ぷらなど揚げてもらっているヒマはないけれど、四日市までにすれば時間的にも大丈夫だ。きょうは回復日にしよう。
 
  四日市の手前にある急坂「杖衝坂」にある集落「内部」では、あいさつした地元の人に誘われるがままに郷土資料館に入った。このエリアには弥生から古墳時代の遺跡や中世・近世の史跡が山のようにある。宿場町のあいだにもおもしろい街はあるものだ。時間があるならもっと話を聞きたかった。
 
  そして大都会「四日市」へ。東海道は駅前の商店街を貫いて、桑名へと続いている。今日は距離こそ短かったが、足の痛みのせいで朝からブレーキがかかりまくって苦労した。どうにか回復させたいけれど、「歩かない」という一番の薬が使えないのが辛い。ホテルの部屋に入ったら即座に靴を脱ぐ。たとえ5分、10分であれ、足を休める時間を確保したい。
 
  †本日の移動距離=亀山→庄野→石薬師→四日市26km/通算116km
 
  ●5日目:12月10日(金)@四日市(三重県四日市市)
 
  きょうの目的地は桑名の先にある「宮」の宿場町。熱田神宮の近くである。つまり三重県から出て名古屋市に入る。前日、不可能なのは承知で「桑名まで行きたい」と言っていたのは、今日のプランが脳裏にあったからだ。
 
  ちょっと長くなるが説明しておこう。江戸時代の東海道では、この「桑名-宮」区間は海路である。木曽川・長良川・揖斐川と大河が横たわって架橋できないため、「七里の渡し」と呼ばれる客船で一気に越える。これが旧東海道の正式ルートだ。ところが、現代にもはやそんな渡し船などない。どうするか、常識的に考えれば「陸の船」鉄道で桑名から宮に移動するのがベストだろう。なにもためらうことはない。江戸時代の旅人だって船の上で足を休めたのだから。
 
  昨日、歩きながら「まいど屋」に電話し、このことを伝えていた。「というわけで電車に乗りますよ」「え?」「だから陸路は東海道じゃないんですって」「いや、でもねぇ……」「現代では電車が“渡し船”なんです!」「うーん、やっぱり徒歩じゃないと……」。
 
  押し問答の末に、歩くことになった。決して歩くのが嫌いではない編集長が、強硬に「鉄道」を主張した理由は3つある。まずは「何もないから」。桑名まではいいけれど、それ以降はひたすら国道1号線で、史跡や観光施設などは一切ない。次に「単調だから」。地図を見るまでもなくひたすら機械的に足を動かし続けることになる。否が応でも苦痛に向き合うことになる。最後に「うるさいから」。真横をトラックが走り続ける道を一日中ずーっと歩く。想像しただけでウンザリする。
 
  さて、「徒歩」に決まった以上は、現実的なプランを練ってみよう。二本の足だけで名古屋・熱田神宮近くの宿場町「宮」にたどり着かねばならぬ。「四日市-桑名」は16km。「桑名-宮」は25km。ワーオ、なんと合計41kmだ! おととい亀山で「人間は40kmも歩いてはならない」との啓示を受けたばかりなのに、さっそくその禁を破らねばならない--。なんてアウトサイダーな生き方なんだろう。
 
  しかし、これは避けられない運命だったとも言える。もし昨日、桑名まで行けていたら今日は「宮まで25km+α」という余裕のあるプランにできたのだろうけれど、それは昨日41km歩かなければ実現できなかったわけで。「七里の渡し」区間を歩くことになった以上、どう転んでも40km超の「死の行軍」は避けられなかったのである。
 
  8時に四日市駅前の宿をスタート。桑名以降の1号線歩きはイメージするだけで疲れるので、とにかく「東海道で桑名まで」に意識を集中して歩いていく。きのう余裕のあるスケジュールで宿に入り、しっかり休めたので、足の調子はひじょうにいい。「これならいくらでも歩けそうだ」と感じると同時に「それでも30kmを過ぎたら地獄を味わう」という考えが浮かぶ。徒歩旅行の経験が蓄積されてきたようだ。
 
  中間地点にある朝日町での休憩を挟んで(旅人向けのきれいな東屋がある)、11時55分に桑名の「七里の渡し」船着き場の跡地に到着。午前中に「四日市-桑名」の16kmを終わらせるという目論見はギリギリ達成できた。
 
  復元された「蟠龍櫓」の近くに観光客向けの和風カフェがあったので、昼休みにする。平日だからか客は自分だけ。名物の冷たい白玉セットを冷たい抹茶オレと一緒にいただく。甘味もいいけれど、それ以上に女性が喜びそうなほのぼのと可愛らしいビジュアルに心が救われる。この店を出たら、宿場町「宮」まで楽しい要素はひとカケラもない「死の行軍」が待っている。ゾンビのようにただひたすら足を動かすだけだ。ここから出たくねぇ……。
 
  「桑名-宮」26kmを淡々と歩く。ランチは中間地点のコンビニでシーフードヌードル。これはお金ではなく時間の節約である。歩くスピードを上げることは不可能。到着時間を少しでも早めるためには、止まっている時間を少しでも短くするしかない。イートイン可能な店舗を見つけたら、秒速でカップヌードルをレジに持っていき、お湯を注いで食べて即、出ていく。可能ならその間、靴を脱いで足を投げ出しておく。これが最も合理的な戦略だ。「かやく」の袋が付いているようなカップ麺など、論外である。
 
  国道1号線歩きの辛さを言葉で表すのは難しい。例によって痛む足と35kmを過ぎて悲鳴を上げはじめる全身の筋肉。そこに「単調」という負荷が加えられる。携帯プレイヤーで音楽を流して気を紛らわせようとするものの、だんだん行軍ラッパに聞こえてくる。旧東海道歩きはハイキングであり史跡めぐりだから、ひとつの経験として意味がある。もちろん話のネタにもなる。ところが、この1号線歩きには何の意義も見いだせない。「まったく無意味なことをしている」といった意識が苦痛と疲労の上にのしかかる。ただただ、痛くて、疲れる。まぎれもない拷問である。
 
  木曽川の上で乗るはずだったJRの在来線を見た。「へぇ、あれが陸蒸気か」と言ってしまう。いつの間にか、目的地を東京ではなく「江戸」と呼んでいる自分に気づく。
 
  もはや脳には、道や距離、時間といった概念を扱うだけの機能もない。「死ぬかも」「死にそう」「死んでしまう」という声にならないうめきを漏らしながら、苦痛の源泉と化した足を動かし続けていると、気づかないうちにとっぷり日が暮れている。そして18時30分、ついに熱田神宮前のホテルに辿り着いた。なんとかフロントにしがみつくと用紙とペンを渡される。オ・オナ……マエト、ゴジュー……ショ?
 
  教訓。人間は40kmも歩いてはいけない。そんなに歩いた者は、もう人間とは呼べない。
 
  †本日の移動距離=四日市→桑名→宮41km/通算157km
 
  ●6日目:12月11日(土)@宮(名古屋市)
 
  今日は少し遅めの8時20分スタート。名古屋市内から八丁味噌で有名な岡崎市に向かって歩いていく。宿場町でいうと「宮-池鯉鮒-岡崎」である。岡崎まで行くと36km。通常のコンディションならちょうどいい距離なのだが、昨日やった死の行軍で足はズタボロ、疲労もガッチリ残っている。宿を出て歩きはじめたばかりなのに、もう30km以上歩いたときのような鈍痛が足を昇ってくる。これは池鯉鮒で終わる可能性が大だ。
 
  都会は信号が多くてペースが落ちる。交差点また交差点、歩道橋、地下通路。休憩を含めて時速4kmを維持するのは不可能だ。足を止めると痛みがハッキリ感じられるのがまたキツい。あまりに苦しいので「これから」ではなく「これまで」に思いを馳せてみる。この東海道の旅は明日でちょうど一週間。もう身も心も完全に旅人である。
 
  東海道の感想は? と自分に問いかけてみる。しかし、忙しいわ疲れるわで印象もクソもない。ひたすら歩いて寝て、歩いて寝ての繰り返しである。途中、甘いものを食べたりコーヒーを飲んだりもするけれど、目的はあくまで足を休めること。楽しみで立ち寄っているわけではない。と、こんなふうにこれまでを総括していたら、うっかり「なんでこんなことをしているんだろう?」と考えそうになった。危ねぇ!
 
  笠寺観音のベンチで足にサラシを巻く。日本軍のゲートルのように圧迫することで少しだけ苦痛が紛れる。手ぬぐい代わりに持ってきたものをこんなふうに使うなんて思いもしなかった。通りがかったじいさんが「足、痛いんか?」と声をかけてくる。「まあ……」「わしなんか全身痛いわ、歳や」。じいさんは去っていった。しばらく歩くとまた痛みが耐え難くなるので、また寺の境内でサラシを巻き直す。今日の旅は、ほとんど足のケアに費やされている。
 
  宮からひとつ目の宿場町「鳴海」を過ぎたあたりに、有松の街があった。ここは複雑な柄の絞り染めが名物で、古い町並みも見応えがある。観光施設も多いので、本来なら半日くらい時間をかけて見たい東海道の名所だ。しかし、1日30kmペースの歩き旅では、そんな余裕はない。染物屋の旧家をサクッと見学して先を急ぐ。
 
  中京競馬場のあたりに桶狭間古戦場があった。これは以前から行ってみたかった場所なので、しっかり立ち寄る。今川義元が織田信長に討たれたとされる場所に石碑がある。いま向かっている三河国から、ここ尾張国に今川軍が侵攻してきたわけだ。現代でも谷の地形がわかるので「織田軍の奇襲」がイメージできる。また東海道を進んで三河国に入ると、敗走する今川軍が村人に襲撃されたという逸話が残る集落があった。「織田軍が来たと勘違いして殺っちゃった」とのこと。今川の兵を供養する松が植えられていた。
 
  近くの家系ラーメンでランチ。この時点で池鯉鮒での宿泊を決めた。今日は距離が稼げなかったぶん、代わりに宿でしっかり体を立て直そう。幸いホテルは設備のいい「ルートイン」だ。宿についたらすぐコインランドリーで洗濯し、大浴場で温冷浴をして、また30km以上歩けるコンディションを取り戻すのだ。また「死の行軍」を余儀なくされる可能性もあるのだから。
 
  †本日の移動距離=宮→鳴海→池鯉鮒21km/通算178km
 
image_maidoya6
40km歩いた先の名古屋で見た“絶望の歩道橋”
image_maidoya7
前から行ってみたかった桶狭間古戦場で